ロシアの歴史

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ロシアの歴史(ロシアのれきし)では、概ね現在のロシアに該当する領土での先史時代、伝承上とされるキエフ・ルーシの成立[注 1]から、ロシア帝国、ソ連並びにソ連崩壊後のロシアの歴史を取り扱う。
概要
[編集]現在のロシアに該当する領土には、長らく様々な民族がいた。9世紀後半になり、スラヴ人が支配するようになるが、統治がうまく行かず、ヴァイキングの有力部族だったリューリクが彼らスラヴ人を支配する。その後、リューリクの一族がキエフを支配し、キエフ・ルーシが建国される。キエフ・ルーシは様々な国に分立し、13世紀前半にモンゴルが到来し、彼らの支配を受けるようになる。
やがて、モンゴルも力が衰え、モスクワ大公国が台頭し、1480年にモンゴルによる支配が終わる。その後はロシアと呼ばれるようになり、ロシア帝国が隆盛を迎えるが、日露戦争の敗戦や第一次世界大戦によって、皇帝に対して不満が高まると、社会主義のソビエト連邦が樹立される。ソビエト連邦では、主にスターリン政権により独裁化が進み、第二次世界大戦に勝利するが、やがて政治や経済は硬直化し、1991年に崩壊する。その後ロシア連邦が樹立された。
キエフ・ルーシの成立まで
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現在のロシアに該当する領土については、先史時代は不明な点が多く、紀元後6世紀以前であっても歴史史料が乏しい状況である[2]。 シベリアのデニソワでは、5万年前から3万年前の人骨が発掘されており、これはデニソワ人と呼ばれている[3]。アムール川流域においては、オシポフカ文化が栄え、1万5千年以上前の石器が見つかっている[4]。紀元前4千年から紀元前3千年はヤムナ文化が広く分布していたと見られている[2]。文化的には、ルーマニア、ウクライナ、モルドバに分類されるが、紀元前4千年紀から紀元前1千年紀までカルパティア山脈東部からドニエプル川北部まで分布した新石器文化として、ククテニ文化があった[5]。
紀元前800年以降、アジアから遊牧民や騎馬民族が西方へと移動し、スキタイ人が黒海沿岸に居住し、紀元前600年にはスラヴ人を支配していたようである[6][7]。彼らは紀元前6世紀から、3世紀にかけては王国を形成したようであるが、詳細は分かっていない[8]。スキタイ人は、マッサゲタイ人の攻撃に遭ったため、キンメリア地方へと移住する[9]。キンメリア地方は、現在のカフカス北方から黒海北岸にかけての草原地帯である[9]。その後、紀元前200年頃になると、 サルマタイ人が南ロシアへと移住し、スキタイ人を滅亡させ、彼らの支配は400年間に及んだ[6][10]。サルマタイ人は、紀元前7世紀には、ドン川とヴォルガ川東方ウラル山脈のステップ地帯で、サウロマタイ族として居住していた[11]。
紀元後370年頃、フン族が東方から移住してきて、サルマタイ人の後裔とされるアラン人を服従させる[10][12]。451年には更に西方へと移住し、ガリア地方へと移動する[12][13]。6世紀から7世紀にかけてはアヴァール人が中央アジア北部から草原地帯へとやってくる[10]。6世紀中頃、突厥がアヴァール人に続いてやってきて、彼らはアラル海、カスピ海北岸に勢力を拡大する[10]。ハザール、マジャル、ペチェネグ、ポロヴェツなどのテュルク系諸族が次々とやってくる[10]。このうち例えばハザール人は、8世紀初めには北カフカス、アゾフ海沿岸、クリミア半島の大部分、ドニエプル川やドナウ川にまで領地を拡大していたとされる[14]。

現在のロシア人の主流は東スラヴ人となる[15]。元々彼らスラヴ人は、紀元前800年ごろにコーカサス山脈からやってきたとされる[1][6][16][17]。ドニエプル川、プリピャチ川、ヴィスワ川、ドニエストル川の4つの川に囲まれた場所が故地であると考えられ、ゲルマン民族の大移動が落ち着いた7世紀頃から南、東北、西へと拡大した結果、南スラヴ人、東スラヴ人、西スラヴ人に分かれたと考えられている[1][6][16][17]。
紀元後7世紀、ハザール人がドニエプル川流域のスラヴ諸民族を征服する[13]。東スラヴ人が編纂した「原初年代記」によると、7世紀から8世紀には、スカンディナヴィア半島からヴァイキング(ヴァリャーグや、ルースとも)がやってきて、スラヴ人を支配していたハザール王国から貢納税を要求するようになり、スラヴ人はヴァイキングに対して税を支払う地域と、ハザール人に対して税を支払う地域に分かれる[1][13][18]。
原初年代記では、862年にノヴゴロドにいたスラヴ人とヴァイキングの間で衝突が起き、スラヴ人が勝利したものの、15の部族からなるスラヴ人の間で内部対立が生じる[1][19]。そこで、スラヴ人達はヴァイキングの有力者であったリューリクに統治を要請し、彼はノヴゴロド地方を平定して支配する[20][1][21][19]。彼らリューリクが土着した領地はルーシの国と呼ばれ、かつては伝承とされていたが一応事実として受け入れられている[1][21][22]。ルーシというのは、リューリクが属していたノルマン系の種族の名称ともされる[21]。当時の東ローマ帝国側の史料によると、東スラヴ人とヴァイキングを区別しておらず、北方の異民族をルスやルーシ、ロースなどと言う風に記していたともされる[19]。
キエフ・ルーシの隆盛
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879年、リューリクは死去し、息子のイーゴリ1世とリューリクの一族のオレグは、882年に南進して、キエフを統治していたリューリクの部下を殺害し、キエフを支配下に置いた[1][20][23][24]。ここにリューリクの一族が支配するキエフ・ルーシが成立し、リューリクの子孫の支配のため、リューリク朝と呼ばれるようになる[20][22]。キエフ・ルーシは、大体であるが現在のロシア、ウクライナ中部・西部、ベラルーシに位置し、つまり現在のロシア、ウクライナ、ベラルーシは一つの国家であった[25]。キエフは、黒海沿岸近くにあったことや、東ローマ帝国とも近かったため交易の点で有利であった。オレグは、907年にコンスタンティノープルへの遠征を行なったとされ、通商条約を締結した[23][26]。イーゴリ1世もオレグと同様にコンスタンティノープルへの遠征を行い、944年に通商条約を締結したとされる[23][26]。この頃、東ローマ帝国からギリシャ正教が伝わったとされる[1]。
945年、イーゴリ1世は税の徴収のため、ドレヴリャーネ族に対しての遠征をおこなったが、争いとなり敗死してしまう[27][28]。イーゴリの妻オリガはドレヴリャーネ族に対して戦い、復讐を果たす[20][27]。オリガはその後、個人的にコンスタンティノープルを訪問して、同地でキリスト教の洗礼を受け、オットー1世に使節を送るなど西欧との交流を深める[29][30]。
オリガの息子・スヴャトスラフ1世の時代になると、キエフ・ルーシの軍備を増強し、965年ハザールを攻撃し、同王国の西部地域を占領する[20][30][28]。だが、972年にスヴャトスラフ1世は、黒海北岸でペチェネグ人との戦いで戦死する[31][30]。スヴャトスラフ死去後、3人の息子の間で争いが起こり、ノヴゴロドを継承した三男のウラジーミル1世がキエフ大公となる[32][28]。987年、ウラジーミルは、東ローマ帝国皇帝バシレイオス2世の要請を受け、バシレイオス2世の妹アンナとの結婚を条件として、兵を派遣する[29][25]。翌年、ウラジーミル1世はキリスト教に改宗して、アンナと結婚し、キリスト教が国教となった[29][31][32]。キリスト教に改宗したことによって、キリル文字が受容されるようになる[29]。
1015年にウラジーミル1世が死去すると、彼には11人とも12人とも言われる息子がおり、お互いに大公位を巡って争いが起きた[31][28]。これを制したのが、ヤロスラフ1世である[31][21]。彼は賢公と言われ、ロシアで最初の法典と言われるルーシ法典を制定する[31][33]。ヤロスラフ1世は、後継者不在の公国を併合するなどして、領土を大幅に拡大した[34][31]。また、自身の息子や娘を西欧諸国の王家に嫁がせ、安定化に務めた[31][35]。ペチェネグ人の侵略も防いで、1037年には戦勝を記念して、聖ソフィア大聖堂を建設した[34]。ヤロスラフ1世は、1054年、自身の領土を分割して息子に継承して死去する[36][28]。
キエフ・ルーシ大公国の分立とタタールのくびき
[編集]ヤロスラフ1世死去後、キエフ・ルーシの領地は分割相続されたため、様々な公国が乱立し、大公位を巡り争いが行われ、1113年にウラジーミル2世によって一度は統一されたものの、再びキエフ大公位を巡り争いが起こる[37][36][38]。これにより、キエフ大公の権威は低下し、有名無実のものとなる[38][39]。1132年から1135年には、キエフ・ルーシは12以上の公国に分立した[13]。公国の数は、12世紀中頃には15、13世紀初頭には50、14世紀には250もの公国があったとする研究者もいる[40]。分立した公国の中には共和制を敷いた公国もある。それがノヴゴロド公国で、バルト海に面していたことで貿易によって栄え、キエフ・ルーシの諸地方から公が選任されて、統治するという共和制が敷かれていた[40]。その他、この時代に有力だった公国には、チェルニゴフ、スモレンスク、北東のロストフ、スーズダリ、ウラジーミル地方、南西のガーリチ、ヴォルィニ地方が挙げられる[25]。この内、12世紀後半、フセヴォロド3世統治の下、ウラジーミル・スーズダリ大公国が栄え、そして、ウラジーミル大公国の更に一領国であったモスクワ公国が台頭して、15世紀後半北東ルーシを統一することになる[40][25]。
タタールのくびきの始まり
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1206年、チンギス・カンがモンゴルを統一、モンゴルは西方への征服活動を行なう[41][25]。1222年から1225年にかけて、中央アジアがモンゴルの侵略を受け、ルーシの南に位置するステップ[注 2]も侵略を受ける[25][42]。1223年、モンゴルは遊牧民であるアラン人、ポロヴェツ人と衝突し、ポロヴェツ人はルーシ諸公に対して救援を要請する[25]。ルーシ諸公はこの要請に応じて、モンゴル軍と対峙するが、6人の公が戦死してしまう(カルカ河畔の戦い)[25][42]。モンゴルは一旦追撃を控えて、撤退するが、1220年代末ジョチ・ウルスが率いる軍が再びルーシの地へ姿を現し、1238年には、ジョチ・ウルスの息子バトゥが北東ルーシの主要都市であるウラジーミルを陥落させる[25][42]。1240年12月には、キエフを陥落させ、キエフはモンゴルによる略奪や攻撃によって廃墟となった[25][42][43]。キエフは、かつては5万人の人口を誇ったが、モンゴルによる攻撃で人口は2千人ほどまでに減少し、東方正教会の府主教座もあったが、ウラジーミルへと移転された(1326年にはモスクワへ移転)[44][45]。ノヴゴロドについては、モンゴル側の兵の疲弊もあったため、侵略を免れた[43]。
その後もモンゴルは破竹の勢いで進撃し、ハンガリーやポーランドにまで迫るが、1241年にモンゴル本国でオゴデイが死去したため、撤退を開始し、ヴォルガ川下流にサライと言う街を作り、ジョチ・ウルスを樹立する[25][42][43]。ルーシの地がモンゴルの支配に入った時代をタタールのくびきと呼称している[46][47]。タタールと言うのは、ロシア視点でのモンゴル人やモンゴル人の支配下にあるテュルク系の人々を総称したもので、韃靼から由来する[45]。このタタールのくびきは否定的な意味合いが強い[47]。ただ、モンゴル側は、統治初期はともかく、ルーシに対しては間接統治を取り、宗教については干渉せず、徴税も当初はモンゴルが行っていたが、次第にルーシの諸公が徴税を行うようになった[48][47]。また、モンゴルによって苛烈な支配がなされたと言う否定的な意見も無いわけではないが、政治制度や法規範が整えられたという肯定的な意見もある[49]。ルーシの諸公は、領地の支配を公認する特許状(ヤルルィク)をモンゴルから獲得するため、時には諸公同士で争うようになる[47]。

このタタールのくびきの時代は、モンゴルの侵略や圧政だけに悩まされたわけではなく、西方からはスウェーデンや、ドイツ騎士団などのカトリック勢力の侵略に悩まされた[50][51]。その中でモンゴルによる支配を受け入れたノヴゴロド公のアレクサンドル・ネフスキーが台頭する[50][51]。この頃より、ルーシはモンゴル勢力と妥協する北東ルーシと、カトリック勢力と同盟する南西ルーシに分離する[52]。北東ルーシが現在のロシアへとつながっていく[53]。ノヴゴロド公のアレクサンドル・ネフスキーは、1240年にスウェーデン軍を撃退し、1242年には、ドイツ騎士団をチュード湖上の戦いで勝利、更にはリトアニアの進撃も防ぐことに成功する[44][46][51]。 アレクサンドル・ネフスキーは、1252年に、モンゴルからウラジーミル大公位を獲得して、その後実子のダニール・アレクサンドロヴィチにモスクワ大公を継承させる[54][55]。
アレクサンドル・ネフスキー死去後、アンドレイとドミトリーとの間でウラジーミル大公位を巡り争いが起こる[56]。ドミトリーは、スウェーデンに逃亡して、スウェーデンから援軍を得て、一時はアンドレイを失脚させることに成功する[48][56]。この頃、ジョチ・ウルスは、分裂してノガイ・ハン国が誕生していた[56]。アンドレイとドミトリーとの争いは、アンドレイがサライのトクタ・ハンと結び、ドミトリー側はサライに反目するノガイ・ハン国と結ぶ形で争われ、ドミトリーが死去する1294年まで続いた[48]。タタールのくびき時代はこのように、モンゴルを利用することで権力を争った時代でもあった[48][56]。
モスクワ大公国の興隆
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1304年、ウラジーミル大公アンドレイが死去し、トヴェーリ公ミハイルとモスクワ公ユーリーとの間で争いが起こる[57][58][59]。この争いは二転三転して長引いた[57][58][59]。結局モスクワ公イヴァン・カリター(イヴァン1世)[注 3]の時代に、ウズベク・ハンからトヴェーリの攻撃許可を得た上で、壊滅的な打撃を与え、その後イヴァンは大公となり、大公の位は以降モスクワがほぼ独占することになる[58][52][60]。
ジョチ・ウルスが、モスクワを重視した理由としては、モスクワとトヴェーリを巧みに対抗させて、貢税の獲得を目指したという事情があるが、西方でリトアニアが台頭したため、ジョチ・ウルスにとっては従順なモスクワを重用したためと見られている[58]。
イヴァン1世死去後、モスクワ大公セミョーン、イヴァン2世の時代に、モスクワ大公国の領土が拡張される[61]。1359年にイヴァン2世の子供ドミトリー・ドンスコイが即位する[62]。
一方、ジョチ・ウルスでは、1359年に、バトゥ家の嫡流が途絶えると内紛へと突入し、ルーシに対して影響力を行使する余裕がなくなってくる[63]。
1370年、中央アジアではティムールが台頭して、ジョチ・ウルスの子孫トクタミシュがヴォルガ川以東を支配し、これに対してジョチ・ウルスのママイが対立を深める[64]。ママイは、トクタミシュに対抗するため、ロシアへの支配を強めようとするが、ドミトリー・ドンスコイはこの動きに対して、1380年ドン川の南、クリコヴォの戦いでママイを戦死させる[65][64][66]。クリコヴォの戦いをもって、モンゴルの支配から自由になったわけではないが、いずれにせよモスクワが大公国として自立するきっかけとなった[65]。その後、ドミトリー・ドンスコイは1383年にトクタミシュからウラジーミル大公と認められた[65]。ジョチ・ウルスはその後ヴォルガ川にアストラハン・ハン国、クリミアではクリミア・ハン国に分裂する[67]。
その後、ドミトリー・ドンスコイ死去後、ヴァシーリー1世の時代は、ニジェゴロド公国を併合、その息子のヴァシーリー2世の時代は、9歳で即位したため、政治の実権を巡り争いが起こり、モスクワは荒廃してしまう[68]。ヴァシーリー2世の後継者となったイヴァン3世がモスクワ大公となると、彼はキエフ・ルーシの北東ルーシの諸公国の統一事業を成功させ、これ以降ルーシはロシアと呼ばれるようになる[57][53][69]。ノヴゴロドは1478年に、トヴェーリも1485年に併合を完了する[53][70]。
タタールのくびきの終焉
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イヴァン3世の時代になると、1476年頃には、モンゴルに対する貢税支払いを拒否して、1480年両軍はウグラ河畔で対峙する(ウグラ河畔の対峙)[53][71]。モンゴル側は正面衝突を避けて撤退したため、これによってタタールのくびきが終わった[注 4][73][52]。イヴァン3世は、東ローマ帝国の皇女ゾエ(ソフィア、東ローマ帝国最後の皇帝コンスタンティノス11世の姪)を妃に迎え、モスクワはイヴァン3世の後継者ヴァシーリー3世の時代には、第三のローマと呼ばれるようになる[69][57][52]。イヴァン3世は、ツァーリを自称、ツァーリと言うのはシーザーをロシア語で呼称したもので、元々は東ローマ帝国皇帝やジョチ・ウルスの呼称として使われていたものである[57][53][69]。
イヴァン3世の後継者、ヴァシーリー3世の時代になると、モスクワ大公国周辺諸国で反モスクワの機運が高まったため、1506年カザン・ハン国を攻撃し、1507年にはクリミア・ハン国、西のリトアニアとも戦った[73]。彼は自国領内の支配を強化し、モスクワ大公国内の公国を併合していった[73][52][74]。ヴァシーリー3世は1533年に死去し、息子のイヴァン4世(雷帝)が後継者となるが、彼は当時3歳だったため、権力闘争が起こる[73][75][76]。イヴァン4世は権力闘争に巻き込まれた経験から、成人後は政治権力の拡大を行った[75][77]。
ロシア・ツァーリ国時代
[編集]イヴァン4世は、1547年に戴冠し、正式にツァーリを名乗り、ここにロシア・ツァーリ国が成立する[77][78][79]。イヴァン4世は、東方ではモンゴルに対して成果を挙げた[79][76]。1552年にモンゴルのカザン・ハン国を、1556年にアストラハン・ハン国を征服、1557年にはノガイ・ハン国、イヴァン4世死去後ではあるが、1598年にはシビル・ハン国(シベリア・ハン国)を征服する[79][76][80][81]。一方西方では、1558年にリヴォニア騎士団と戦争になり、バルト海への進出を目論んだが、リトアニア、ポーランドとスウェーデン、デンマークも参戦してしまい、泥沼化し、戦争は1583年まで続いてしまう(リヴォニア戦争)[80][82][81]。なお、戦争についてはイヴァン4世晩年の1582年にポーランドと、1583年にスウェーデンと講和条約が締結されるが、ロシアはフィンランド湾岸の全領地とカレリアを含むラドガ湖西岸を手放す結果になる[79][80][83]。リヴォニア戦争が長期化したため、ロシア内部で対立が生じ、猜疑心に駆られたイヴァン4世は1564年にモスクワを立ち去る[84][77][81]。だが、モスクワ市民はイヴァン4世の復位を要望したため、イヴァン4世は復位し、オプリーチニキと言う私兵部隊を組織して、敵対者や裏切り者(と考えられた人物)を次々に処刑していった[81][74]。オプリーチニキによって犠牲になった者の人数は、数万人に及ぶとされる[76]。横暴のあまり、イヴァン4世の息子のイヴァン・イヴァノヴィチがイヴァン4世を諫めたが、彼はイヴァン4世によって殺害されてしまう[81][76]。
1584年、イヴァン4世が死去すると、フョードル1世がツァーリとなるが、彼は病弱であったため、フョードルの義兄ボリス・ゴドゥノフが政治の実権を事実上掌握していた[77][46]。1598年にフョードル1世が後継者不在のまま死去してしまい、これによってリューリクから連なる血統が途絶え、リューリク朝は滅亡する[77][85]。なお、1589年、総主教座がモスクワに創設される[86][81][80]。これによって、ツァーリと総主教が並び立つツァーリによる専制が成立する[81]。
動乱時代
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16世紀末から17世紀初頭は動乱時代と呼ばれ、リューリク朝が断絶したこと、偽者のツァーリを僭称する者が相次いで現れ、政治は混乱した[86][87]。
リューリク朝断絶後、全国会議(ゼムスキー・ソボル)が開催され、ボリス・ゴドゥノフがツァーリに選出される[86][81]。なお、この全国会議は様々な身分から構成された人々がツァーリに提案をする場で、元々1549年のイヴァン4世時代に開催されたものである[88]。ツァーリとなったボリスであったが、1601年から1603年に渡り大飢饉に見舞われ、反乱が起こる[86][81]。1604年、フョードル1世の異母弟で、死んだはずのドミトリーを僭称する者がポーランドで決起し、民衆の支持を得て、1605年7月にはモスクワで戴冠する[89]。なお、ボリスは1605年4月に病死していた[89]。だが、偽ドミトリーの統治は民衆から支持を得られず、1年ほどで殺害されてしまう[89]。偽ドミトリーを倒したのは、アレクサンドル・ネフスキーの弟の血筋に当たるヴァシーリー4世であったが、貴族の支持を得られずに間もなく退位する[81][90]。この後、ツァーリを僭称する者による反乱が相次ぎ、その人数は50人を超え、実に18世紀終わりまで続くことになる[81][89]。偽者騒ぎによってスウェーデンやポーランドなど外国勢力が干渉し、遂には1610年、ポーランド王子のヴワディスワフ4世がツァーリとして即位することとなった[90]。だが、モスクワではポーランドに対する反発があり、国民軍と言う組織による蜂起が発生し、1612年10月にモスクワの解放に成功する[90][81]。
ロマノフ朝の成立
[編集]ポーランドを追放することに成功した国民軍は、ツァーリを選出するため、全国会議を開催する[88]。その結果、名門貴族のロマノフ家のミハイル・ロマノフが選出され、ロマノフ朝が始まる[91][88]。
ロマノフ朝の2代目アレクセイの時代は、1648年に塩一揆が起こる[92]。これはアレクセイの側近ボリス・モローゾフが塩税の税率を引き上げた結果、塩の買い控えが起きたため、それ以外の税を遡及して徴収を行おうとしたため民衆が一揆をおこしたもので、モロゾフは塩一揆勃発の責任を巡って失脚する[92]。塩一揆後、1649年に法典が整備され、これは会議法典と呼ばれる[93][92]。会議法典によって君主権が至上のものとされ、土地の所領保有が保護されて、大貴族、士族の地位が保護され、農奴制(後述)が完成する[94][93][95]。
アレクセイ時代の1653年、ロシアの正教信仰も大きく変化する[96]。モスクワの総主教のニーコンが、正教会での腐敗を正すため、儀式改革を行った[96][94]。儀式改革では十字を描く際の指の本数などを変更させた[96][94]。これに対して、古儀式派が反発し、彼らは、1666年に破門され、ソロヴェツキー修道院で8年に及ぶ抵抗を行い、1676年に降伏するが、その後も古儀式派は抵抗して、迫害されることになる[94][96]。
1675年にアレクセイ死去後、フョードル3世が後継者となるが、彼は1682年に死去する[97][94]。その後、後継者争いが起こり、フョードル3世の弟イヴァン5世とピョートル1世による共同統治が行われ、摂政はイヴァン5世の姉であるソフィアが務めることになる[98][94]。摂政のソフィアは対外政策に力を入れ、反オスマン帝国の神聖同盟への加盟や、1686年にはポーランドとの恒久平和を謳った[97]。だが、1687年、1689年に、クリミアへの遠征が失敗に終わると、ソフィアはピョートル1世を殺害した上で、自身の権力基盤を固めようとするが、クーデターは未然に発覚してソフィアは失脚する[94][97][99]。
農奴について
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ロシアの農奴について補足すると、元々中世時代はロシアの農民は比較的自由な身分であった[100]。風向きが変わるのが、1497年イヴァン3世の時代に、農民は毎年ユーリの日という11月26日の前後1週間は領主の村から移住ができるとされていた[100]。次第に軍事力強化のため、歴代のモスクワ大公は士族身分を形成し、士族は農民を支配していた[100][73]。だが、このユーリの日を利用し、農民は苛烈な支配を行う士族から移転してしまうケースが相次いだ[100]。イヴァン4世の時代になると、士族の申し出や、労働力としての農民を必要としたため、1581年に政府は農民の移転の権利を制限し始める[100]。そして、1597年ボリス・ゴドゥノフ時代、領主から逃亡した農民の捜索期限は5年以内と言う条件で、旧領主の下へと連れ戻すという法律が実施され、農民の農奴化が進展していった[86][100][80]。会議法典では、逃亡した農民の捜索期限が撤廃され、これは1835年1月まで効力を持っていた[92]。全国会議は1653年に廃止されて、以降ツァーリによる専制政治が強化される[94]。
コサックについて
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会議法典によって農民への支配が強化されたが、農民の逃亡は相次ぎ、彼らはロシア南方にあるヴォルガ川、ドン川、ドニエプル川周辺に居住して、コサックとなる[93][101]。元々コサックは、14世紀頃に、ポーランドやリトアニアから逃亡してきた農民がドニエプル川に土着したのが始まりで、語源は自由で独立した人と言う意味合いである[102][101][103]。コサックたちは、自分たちで未開の地を開拓していった[101][103]。コサックたちは遊牧民のような生活を行い、略奪にも手を染めていたが、政府側は自治を約束し、見返りに国境警備を委託するなど軍事勢力として重宝されるようになる[104][105]。彼らコサックは全国会議に圧力をかけて、ミハイル・ロマノフのツァーリ選出に貢献した[101]。このコサックにも複数の集団があって、有力だったのがウクライナ南部のザポリージャ・コサックと、ドン川のドン・コサックである[103][94]。この内、ザポリージャ・コサックについては、指導者のボフダン・フメリニツキーが、1648年にポーランドに対して反乱を起こしたが、失敗に終わる[94][102][105]。ザポリージャ・コサックとロシアの間で、1654年にペレヤスラフ協定が締結され、 ロシア・ポーランド戦争へと突入する[105][103]。ポーランドとの戦争の結果、1667年にアンドルソヴォ条約が締結され、ロシアはキエフとドニエプル川左岸のウクライナ領を獲得することになる[106][94][102]。ただ、ウクライナには自治権が認められ、これがウクライナの独立国家としての始まりの理由とされる[105]。ドン・コサックについては、先述した会議法典制定後、逃亡農民が多数やってきたため、勢力を増強するが、元々のコサックと新コサックとの軋轢が生じた。そんな中、1667年、新参のコサックを中心としたスチェパン・ラージンによる反乱が起こり、1670年に、政府軍によって反乱は鎮圧させられ、政府軍の指揮下に置かれることになる[105][93][104]。
ロシア帝国時代
[編集]ピョートル1世時代
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危うくソフィアによって殺害される恐れのあったピョートル1世であるが、彼は幼少の頃より戦争に憧れを持ち、仲間と戦争ごっこをしていたほどで、ツァーリになると数々の戦争を行う[94][99][97]。1696年、ピョートル1世は、ソフィア治世時代に失敗していたオスマン帝国が支配するアゾフ海の占領に成功する[99][97]。1697年、彼は西欧諸国の視察を開始し、時には造船所の工員として働き、西欧の進んだ技術を吸収していった[99][97]。1700年には、北方同盟の一員として、スウェーデンとの大北方戦争を開戦し、1705年のナルヴァの戦いでは敗北するが、1709年のポルタヴァの戦いでは勝利する[97][107]。1713年には、スウェーデンから獲得したフィンランド湾近郊の要塞跡に、サンクトペテルブルクを建設し、首都機能を移転させた[108][99][109]。その後、1721年にニスタット条約を締結して、バルト海への出口を確保する[97][98]。ピョートル1世時代は、戦費調達のための新税が設置され、その中には髭税[注 5]と言うものもあった[107][108][109]。ピョートル1世は、国政の最高機関である元老院から、大帝と言う称号を得ることになる[98]。ピョートル1世の時代には、総主教職が廃止され、宗務院が設置され、正教会をツァーリに服属させ、宗教権力を掌握した[109][78]。これらピョートル1世の諸改革に対しては、反対意見も多く、時には反乱も起きた[111]。
ピョートル1世は、ニスタット条約締結後、皇帝を名乗る[112][113]。1725年にヴィトゥス・ベーリングを起用して、遠征に向かわせた[99]。ベーリングは、1728年にユーラシア大陸との東端とアラスカの間の海峡を発見し、これはベーリング海峡と呼ばれるようになる[99][109]。その後、ベーリングは1741年にアラスカにも到達し、アラスカはロシア領となる[99][109]。
ピョートル1世死去後からイヴァン6世まで
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ピョートル1世は、死去の直前に帝位継承法を制定していたが、その内容はツァーリが後継者を定めるとされていたが、後継者を指名することなく1725年に死去してしまう[114][115]。貴族はこれを利用して、自身にとって都合の良い人物としてピョートル1世の妃エカチェリーナ1世を後継者として推薦するようになる[114][108]。こうして、女帝のエカチェリーナ1世が誕生するが、彼女は女帝となったものの、1727年に死去する[114][116]。その後、ピョートル1世から見て、孫のピョートル2世が擁立されるが、彼は名門貴族のアレクサンドル・メーンシコフの傀儡であり、メーンシコフは自分の娘であるマリアをピョートル2世と婚約させるなど、専横が目立ち、反メーンシコフ派の貴族によって失脚してしまう[114][117]。
ピョートル2世が1730年に死去すると、ロマノフ家の男系子孫は途絶えてしまう[114][116]。そこで、皇帝の諮問機関である最高枢密院は、後継者として、クールラントに嫁に出されていたアンナ・イオアンノヴナを後継者に選出する[108][114]。最高枢密院は彼女を皇帝として即位する際、皇帝権力の大幅削減を認めさせたが、アンナが実際に皇帝になると、彼女はこれを反故にしてしまう[108][114]。アンナの治世時代は、貴族の国家勤務の期間が見直された[118]。ピョートル1世時代、貴族は国家に対する生涯勤務が義務付けられていたが、1736年、アンナの統治下で25年間に短縮された[118]。
1740年にアンナが死去すると、一度は生後2か月のイヴァン6世が皇帝となるが、ピョートル1世の娘であるエリザヴェータを主体とする軍のクーデターによって廃位される[108][117][119]。
エリザヴェータの治世は20年に及び、その間オーストリア継承戦争にオーストリア側として参戦し、七年戦争ではプロイセンと戦争を行った[119][116]。スウェーデンとの戦争も勃発するが、戦後の1743年に締結されたトゥルクの和約では、ロシアの国境をフィンランド湾にまで拡張する[109]。内政面では1755年にロシア最初の大学であるモスクワ帝国大学が創設され、芸術アカデミーも創設された[119][116]。貴族の国家勤務については、アンナの時代の25年から短縮された[119]。
エリザヴェータの次代皇帝はピョートル3世が皇帝となる[116][120]。彼は貴族を国家勤務から解放させた[120]。国家勤務から解放された貴族であったが、上級貴族は権威を維持するため、引き続き国家勤務を継続する者もいた[120]。ピョートル3世はプロイセンのフリードリヒ2世を敬愛していたため、1762年、優勢であったプロイセンとの七年戦争を休戦して、獲得した領土も返還、賠償金の請求も破棄してしまう[120][118][121]。これによって軍から反感を買って、クーデターが起き、ピョートル3世は在位わずか半年で廃位され、不審死を遂げる(宮廷革命)[120][118][121]。ピョートル3世の死については、暗殺説や次代女帝エカチェリーナ2世が主導したとも、主導していないともされ、わかっていないことが多い[108][121][119]。ピョートル3世の死は、後述するが反乱の口実とされ、尾を引くことになる。
エカチェリーナ2世時代
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ピョートル3世死去後、ピョートル3世の妻エカチェリーナ2世が1762年に皇帝となる[116]。彼女は元々ドイツ人であったが、ロシア語を学び、ロシアの生活を受け入れるよう努力したため、貴族からは人気があった[116]。内政面ではヨーロッパ諸国に植民を呼びかけて、国内経済の活性化に務めた[122]。法治主義へと舵を切ろうとし、1767年に農奴を除いた様々な社会階層からなる立法委員会を結成させたものの、具体的な成果は得られなかった[122][注 6]。エカチェリーナ2世は、対外政策で成果を挙げた。1763年、ポーランド国王アウグスト3世の死去により、エカチェリーナ2世の寵臣であるスタニスワフ・アウグスト・ポニャトフスキをポーランドの新国王として擁立し、ポーランドを懐柔しようとする[116][123]。だが、スタニスワフは、エカチェリーナ2世の意図を無視した改革を行ったため、エカチェリーナ2世はプロイセン、オーストリアとポーランドの分割交渉を行い、1772年分割に成功する(第一次ポーランド分割)[123]。その後、1793年に第二回目のポーランド分割、1795年には第三回目のポーランド分割が行われ、ポーランドはヨーロッパの地図から消滅する[123][116][124]。三度に及ぶポーランド分割によって、ロシアはベラルーシ、ドニエプル川右岸のウクライナと、リトアニアを獲得することに成功する[125]。

赤がロシア帝国領、緑がオスマン帝国領、赤と緑のストライプはオスマンからロシアへ割譲された領土、黄色と緑のストライプはクリミア・ハン国の領域

1768年、クリミア・タタールによる襲撃に端を発したオスマン帝国との戦いに勝利し(露土戦争)、1774年キュチュク・カイナルジ条約が締結され、ブグ川とドニエプル川流域、ケルチ要塞、アゾフを獲得して、黒海への出口を確保する[123][78][126]。その後、黒海に軍港セヴァストポリが構築された[126][123]。1787年、オスマン帝国と再び戦争となるが(露土戦争)、これもロシアが勝利して、ヤッシーの講和が締結され、黒海の北部沿岸全域を獲得する[126][123][125]。この黒海北岸を統治したのが、エカチェリーナ2世の寵臣ポチョムキンで、彼は、逃亡農民や貴族を誘致し、1760年代10万人だった同地の人口を1793年までに82万人にまで増やした[126][127]。
対外政策では結果的に成果を挙げたエカチェリーナ2世であったが、内政面では1773年、ピョートル3世を僭称する者が反乱を起こす(プガチョフの乱)[128]。その正体はエメリヤン・プガチョフと言うドン・コサックで、彼は(エカチェリーナ2世が)ピョートル3世の帝位を簒奪したと糾弾し反乱を起こす[128][116]。反乱は労働者や農民の支持を集めたが、反乱は1774年に鎮圧され、プガチョフは味方の裏切りによって逮捕され、処刑される[128][121]。エカチェリーナ2世は、プガチョフの反乱の原因を地方行政にあると考え、地方行政の基本法を発布した[128][121][125]。これは、県を細分化した上で、県の人口の上限を設定、人口に応じた郡を設置すること、そしてこれら地方行政の統治には貴族が行うことが定められた[128][121][125]。
パーヴェル1世からニコライ1世時代
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1796年、エカチェリーナ2世が死去する[129][130]。後継の皇帝はエカチェリーナ2世の息子パーヴェル1世となったが、彼は母親であるエカチェリーナ2世と不和で、エカチェリーナ2世の政策の否定を行った[129][130][131]。彼は大量に法律を発布し、その中でも帝位継承法は、男系男子が皇帝位を継承することを定め、これによって女帝が誕生することは無くなった[130][129][131]。パーヴェルの政治姿勢は軍人中心となっていたため、貴族からは支持されなかった[129]。1798年、パーヴェル1世は、第二次対仏大同盟に加盟[注 7]して、フランスと対立を深める[131]。だが、1800年になるとパーヴェルは同盟国の失策に失望したことや、台頭したナポレオン・ボナパルトに心酔していたため、フランスへと接近して、反英同盟に加盟してしまう[131][133]。貴族側は、この対外政策の一貫性の無さに怒り、パーヴェル1世は1801年に暗殺されてしまう[133][130]。

パーヴェル1世の後は、息子のアレクサンドル1世が皇帝となり、彼は農奴解放に着手するが、貴族の反対によって頓挫する[129]。対外政策としては、当初はイギリスとフランスとは等距離外交を目指したが、1804年にナポレオンが皇帝となると、翌年には第3回対仏大同盟に参加し、フランスと戦争になる[129]。だが、1805年、アウステルリッツの戦いでフランスに敗れると、ロシアはフランスの大陸封鎖令に参加する[129][130][134]。だが、大陸封鎖令によって、ロシア側が困窮したため、イギリスと極秘裏に貿易を行う[129][130]。これが、フランスに知られることとなり、1812年にナポレオンはロシア遠征を行う[129][135][134]。なお、ロシアはこの頃、フランス以外とも戦争を行い、1808年にスウェーデンと戦争を行い、フィンランドを獲得して、アレクサンドル1世はフィンランド大公国の大公となる[130][136]。イランのカージャール朝との戦いで、グルジアとアゼルバイジャンの一部、オスマン帝国との戦いでドニエストル川とプルト川の間にあるベッサラビアを獲得していた[136]。

ナポレオンのロシア遠征によって、ロシア側は焦土戦術を取って退却を行う[134]。そして、ナポレオンの軍は1812年9月、モスクワにまで進軍し、モスクワは大火に見舞われ[注 8]、ナポレオンの軍は食糧に事欠き、退却を開始する[129][135]。これに乗じて、アレクサンドル1世は、ナポレオンの軍を追撃し、1814年3月にはパリへと入城を果たし、ナポレオンに勝利する[135][138][133]。

ナポレオン勝利に大いに貢献したアレクサンドル1世は、戦後処理のウィーン会議を主導した[129][135]。ウィーン会議後、アレクサンドル1世はポーランド立憲王国を樹立して、自身が国王に就任した[133][135]。アレクサンドル1世は対外政策で成果を挙げたものの、内政面についてはおざなり気味であり、40代後半になると政治は側近に委任するようになる[138]。そして、ロシアでは、自由な気風がナポレオンを生んだと考えられたため、内政面では自由を抑圧する方向へと向かうことになる[129][138]。これに対して、貴族達の不満が鬱積し、彼らの中には立憲政治と農奴制の廃止を訴える運動、デカブリスト(12月党員)の運動が発生する[139][133]。愛国主義の強い貴族の中には、救済同盟や福祉同盟と言った組織を結成する者も現れる[139][133][140]。
1825年、アレクサンドル1世が死去し、弟のニコライ1世が帝位を継承することになるが、ニコライはそれを知らされていなかったため、帝位の空白期間が数週間生じ、デカブリストによる反乱が起きる[139][141]。だが、デカブリストの反乱は、間もなく鎮圧された[141][138]。帝位についたニコライ1世は、治安の強化に努め、検閲を強化して、反政府的な出版物は徹底的に取り締まった[142][138]。この取り締まりによって処罰された者の中にはフョードル・ドストエフスキーもいた[142][143][133]。ニコライ1世はデカブリストによる反乱を受けて、ポーランドに対して強硬な姿勢を取り、1830年にはポーランドの憲法を停止して、ポーランドの軍隊と国会を廃止、ロシア語を公用語とした[142][140][78]。
1848年革命がヨーロッパ各地で起こると、ニコライ1世はこの動きがロシアに伝播することを恐れ、(ニコライ1世にとって)危険思想の弾圧、大学の自治の取り締まりが強化された[142][144]。
ニコライ1世時代、北コーカサスではダゲスタン、チェチェンではイスラム教徒が反ロシアの姿勢を鮮明にし、1816年から掃討作戦が続けられていたが、ニコライ1世時代に突入しても抵抗が続いていた[145][146]。1834年に北コーカサスでシャミールが指導者として台頭すると、コーカサス戦争が勃発し、泥沼化する[146]。戦争はニコライ1世後の1864年、チェチェンの平定を経て、北西カフカースを平定してようやく終戦する[146][133][145][147]。そして、対トルコについては、1826年、ギリシャでトルコに対する独立運動が展開され、ロシアはこれを支持して、ナヴァリノの海戦でトルコとエジプトの艦隊に勝利する。戦後の1828年アドリアノープル条約でドナウ川河口を獲得する[145]。

その後、1853年に、パレスチナの聖地管理問題を巡って、ロシアはフランスと対立を深め、同地を管理するオスマン帝国と戦争に突入する[148][147][149]。これがクリミア戦争で、戦争は緒戦こそロシアが勝利したが、英仏が参戦し、不利に転じる[148][147][149][150]。ロシア側はセヴァストポリ要塞の戦いで大敗し、戦争の趨勢が決する[150][151]。ニコライ1世は終戦する前の1855年に死去し、アレクサンドル2世が皇帝となる[151][150]。クリミア戦争後、1856年のパリ講和条約によって、ロシアは引き続きセヴァストポリ要塞の確保はできたものの、ベッサラビア南部を失陥し、ダーダネルス海峡とボスポラス海峡はオスマン帝国以外の国の航行が禁止された[151][78][150][148]。
アレクサンドル2世時代の改革
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ロシアのクリミア戦争の敗因としては、ロシアが英仏に対して軍事技術が遅れていたこと、そして、ロシア側は予備役が無かったため、兵員が不足しており、農民(農奴)による急造の義勇兵に依存していたことにあった[151][148][152]。農奴達の間では、徴兵に応じれば、農奴から解放されるという噂が流布されており、徴兵に応じた[152][151][148]。だが、農奴が徴兵に応じるということは、農作物の生産量の減少につながり、戦費負担も加わって、インフレが発生した[148]。また、クリミア戦争中、ロシアは鉄道がほぼ未整備だったため、物資の補給が遅延した[152][148]。これらにより、アレクサンドル2世は国内の整備と改革が必要と考えた[147]。こうして、ロシアでは1860年代から1870年代にかけて、改革が行われ、これは大改革の時代と呼ばれるようになる[147]。民間主体による鉄道建設が行われ、1865年に3500 kmだった鉄道は1874年には1万8200 kmにまで到達する[153][154]。鉄道建設が興隆したことにより、製鉄業や重工業が成長する[154][155]。アレクサンドル2世は、農奴解放に向けて動き出し、それを察知した貴族から反発の声があったが、アレクサンドル2世は全国を巡幸して、彼らの説得に当たった[156]。そして、1861年農奴解放令が認可され、1863年に発令される[151][157][147]。これによって農奴は人格的には解放された[147]。ただし、農民達は農奴解放前と比較すると、農地が狭くなり、農地を獲得するためには49年の年賦を支払う必要があったため、結局農民は農村に縛り付けられることとなった[156][158][152]。
ロシアは1860年にウラジオストクを建設し、これが極東進出の足掛かりとなる[147][159]。1867年、アラスカをアメリカに売却する[153][147]。1875年には日本と条約を締結して、サハリンをロシア領として、ウルップ以北のクリル諸島を日本に譲渡した(千島列島)[153][147]。バルカン半島情勢については、1875年にトルコが支配していたボスニア・ヘルツェゴビナで反乱が起こり、ロシアでは同じスラヴ人の同胞を救うべきであるという意見が起こり、1877年に露土戦争が勃発し、ロシアが勝利する[153]。戦後に締結されたサン・ステファノ条約でセルビア、モンテネグロ、ルーマニアの独立が認められ、ロシアはベッサラビアを奪還する[153]。しかし、余りにもロシアに有利な条件であったため、ベルリン条約で見直しが行われ、サン・ステファノ条約ではブルガリアは自治公国となったが、ベルリン条約で領土が縮小されてしまう[153][160][78]。
アレクサンドル2世時代、司法改革が行われ、公開裁判や陪審裁判の実現、教育制度の改革などによって、ロシア社会にはインテリゲンチャというエリート階層が誕生する[147][138]。その中から農民への啓蒙活動を行なうナロードニキ運動が1876年に結成されるようになる[161][158][162]。ナロードニキ運動はやがて、組織が分裂し、中にはテロルを行う派閥やマルクス主義に傾倒する者も現れる[162][138][154]。アレクサンドル2世も度々暗殺未遂に遭い、1879年からは2年間で7回の暗殺未遂に遭うほどだった[162][158][163]。最終的には、1881年になってナロードニキ運動から派生した人民の意志派が、アレクサンドル2世を殺害する[158][162][163]。このナロードニキ運動の指導者の中には、プレハーノフがおり、彼はマルクス主義へと傾倒していくことになる[161][154]。なお、アレクサンドル2世の暗殺を行った人民の意志派には、ユダヤ人が多数いたことから、ユダヤ人に対するポグロムが行われ、この時アメリカに亡命したユダヤ人が多数発生した[155][154]。
アレクサンドル3世からニコライ2世時代とロシア帝国の終焉
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アレクサンドル2世暗殺後、アレクサンドル3世が後継者となる[164]。彼は、父であるアレクサンドル2世の改革を否定し、反動政治を行い、専制政治を強化した[164][154]。彼は革命運動のきっかけとなる出版を規制した[154][162]。テロを取り締まるため、治安維持法を制定して、革命運動の勃発地となる、大学については下層民の入学制限を課した[162]。しかし、これらの規制については、かえってテロルを呼び起こしてしまい、1887年アレクサンドル3世は暗殺未遂の被害に遭う[162]。暗殺の実行犯はレーニンの兄アレクサンドル・ウリヤノフであった[162]。反動政治を行ったアレクサンドル3世であったが、愛民政策と言うものを打ち出し、農奴については重い負担となっていた買戻し金の軽減、児童労働の禁止を打ち出した[154][164]。
ロシアは、ベルリン会議後、ドイツ、オーストリアと同盟を締結していたが(三帝同盟)、ロシアの庇護下にあるブルガリアがロシアと対立を深めたため、ロシアは同盟が期限切れとなる1890年以降、同盟の更新は行わず、フランスに接近し、1891年に露仏同盟を締結する[154][165][166]。この1891年はロシアの内外で事件が相次いだ。皇太子のニコライ(後のニコライ2世)は、日本を訪問して大津事件によって負傷する[166]。ニコライの命に別条がなかったことから、ロシアは国際問題とせず鷹揚な態度を示した[166]。そして、中国ではイギリスが東清鉄道の建設を清に認めさせ、ロシアはイギリスと中央アジアやイランを巡って対立を深めていたため、シベリア鉄道の建設に着手する[166][159][78]。
1891年、大飢饉に見舞われたのにも関わらず、外国に対して穀物が大量に輸出されたため、飢餓輸出となり、40万人もの死者が生じる[167]。この窮状に対して、大蔵大臣のセルゲイ・ウィッテは、工業化を推進し、19世紀末から20世紀初頭にかけて、ロシアは工業国として成長する[166][167]。1900年時点では鉄鋼業は世界第4位となり、原油の生産量も世界の半分をロシアが占めるまでになる[167][154]。
経済成長を遂げたロシアであるが、1890年代時点でも、ナロードニキとマルクス主義者が激論を交わすなど、不安定であった[167][154]。
1894年、アレクサンドル3世が死去し、ニコライ2世が皇帝となる[167]。この頃、極東では日清戦争が勃発しており、日本が勝利する[166][167]。日本の中国大陸進出に警戒したロシアはドイツ、フランスと三国干渉を行い、遼東半島を返還させた[167][168]。そして、1898年ロシアは清に旅順と大連の租借権を認めさせる[167][168][169]。ロシアは日本を仮想敵国として、清と露清秘密条約を締結して、満州横断鉄道の敷設権を獲得する[168]。一方、日本の方はロシアの中国大陸での増長に反発するようになる[168]。

この頃の国内情勢としては、スイスにおいて活動していたプレハーノフが、ロシアの専制政治の打破と社会主義政権樹立を訴えかけ、1898年ロシア社会民主労働党が結成される[161]。同政党は政府から弾圧を受けたため、社会革命党が結成された[161]。社会民主労働党からはレーニンが台頭する[161]。1903年、ブリュッセルとロンドンにおいてロシア社会民主労働党の結党大会が行われ、党はレーニンのボリシェヴィキ(多数派)とユーリー・マルトフのメンシェヴィキ(少数派)とに分裂する[170][161]。レーニンは職業革命家の入党を要望し、革命を実現したい者に対して開かれた政党にしたいというのがマルトフの意見であった[161]。
中国では義和団の乱が勃発し、ロシア、日本を含む列強8か国が満州へと出兵する[171]。事件は鎮圧されたものの、ロシアと日本は撤兵せずに満州に駐留する[172]。これに対して、朝鮮半島の権益を確保したい日本は、ロシアを警戒しつつ交渉に当たる[171]。交渉内容は朝鮮を日本の保護国とするものであったが、交渉は決裂し、1904年1月、日本はロシアに国交断絶を申し出る[171][172]。そして、翌月1904年2月、日本は旅順と仁川を攻撃し、日露戦争が開戦する[173][171]。戦争はロシアからすると極東にあるため、輸送に支障が生じ、戦況は不利に展開する[171][168]。その後、奉天会戦、日本海海戦でロシアは敗北し、戦争継続は不可能となる[174][169]。ロシア本国では1900年に経済成長が止まったために不況へと突入し、日露戦争勃発時でも社会不安から、ストライキやテロルが多発している状況であった[170][171]。1905年1月には、司祭のゲオルギー・ガポンが普通選挙の開催と議会の開設を要望し、10万人の市民が首都サンクトペテルブルクの宮殿に殺到する[173][174]。政府はこの運動を武力で鎮圧した[174][172]。これが血の日曜日事件である[174][172]。

日露戦争については、アメリカ合衆国大統領セオドア・ルーズベルトの仲介により1905年9月にポーツマス条約が締結される[174][169]。ポーツマス条約によって日本は朝鮮半島の権益を獲得し、遼東半島南部の租借権、東清鉄道満州支線の譲渡が承認される[173]。ロシアはサハリン南部を日本に譲渡し、賠償金支払いは行われず、ロシアにとっては好条件と言えた[172][168][169]。一方、ロシア本国では血の日曜日事件を受けて、1905年10月にニコライ2世が詔書を発表し、人権尊重、良心・言論・集会・結社の自由を認め、立憲政治を約束する[175][176][174]。1906年2月から3月にかけて、選挙が実施され立憲民主党が第一党となり、初代首相はウィッテとなった[177][176]。選挙の際、ボリシェヴィキは選挙をボイコットし、メンシェヴィキも同様に選挙を拒否、社会革命党はテロに走った[176]。その後、1906年4月に憲法が公布され、立憲専制体制が謳われることになる[178][177]。
その後、ウィッテは首相を辞任して、ピョートル・ストルイピンが首相となると、土地改革を目指した[179][180]。農奴解放令が1861年に発布されて以降も、農民の大部分は農村の共同体に縛り付けられていた[181]。そこで、彼は農村共同体を解体し、個人農民を創出したいと考え、土地改革法案を1906年11月に成立させる[179][180][177]。これにより農民は共同体内の土地を私有地とすることが可能となる[179]。だが、農地の広さについては格差があり、小さな土地しか持たない貧農が大量に発生し、結局は共同体に依存するようになる[181][182]。ストルイピンは、反対派を容赦なく処刑し、皇帝勅令によって法律を公布させるなど強引な手法によって、反感を抱いたユダヤ人青年によって、1911年9月に暗殺されてしまう[179][177][183]。

ストルイピンが暗殺後、ロシアでは革命に向けた動きが盛んになり、レーニンがオーストリアのクラクフから政党活動を指導し、党機関紙プラウダを発刊し、支持を集める[184]。1912年4月には、シベリアの金山において労働者に対する虐殺事件が起こり、労働運動も起こる[184][183]。この頃になると、最早皇帝の権威は完全に失墜していた[184]。1912年になると、僧侶のグリゴリー・ラスプーチンが政治に干渉するようになる[184]。ラスプーチンは、ニコライ2世の息子であるアレクセイの血友病を治療したとされ、皇帝ニコライ2世の絶大な信頼を得ていた[185][186]。
1914年7月、第一次世界大戦が勃発する[187]。ロシアは三国協商側として参戦し、当初は国民に支持された[188]。首都サンクトペテルブルクは敵国のドイツ風の名称のため、ペトログラードに改められた[188][189]。戦争開戦に当たっては、ボリシェヴィキとメンシェヴィキは議会から退場し、戦争反対を表明した[189]。ロシアは戦争ではドイツと対峙し、タンネンベルクの戦いで敗戦し、補給にも支障が出て、士気が低下する[189][190]。

第一次世界大戦開戦による、戦争遂行のため工業生産は軍需物資の生産に傾注され、鉄道輸送も軍需物資の輸送が中心となり、地方で生産された農作物は都市への搬送が滞り、インフレと食糧不足に見舞われる[191][192][175]。1914年9月、ニコライ2世はラスプーチンの意見によって、軍の最高司令官に就任することを表明する[188][193]。このようにラスプーチンの専横が目立ち、貴族や政治家の反感を買ったため、彼は1916年12月に暗殺された[194][193]。1917年2月になると、首都では女性労働者を中心として、パンを求めるデモ行進が行われる[195][194][191]。これが二月革命であり、臨時政府が立憲民主党を中心として立ち上げられ、ニコライ2世は退位し、ロマノフ朝は滅亡した[191][187]。ニコライ2世とその家族は、その後1918年7月17日に射殺された(ロマノフ家の処刑)[196][197]。
臨時政府の樹立と瓦解
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青 - 白軍の最大進出ライン
赤 - 1921年の前線
二月革命後、立憲民主党を主体とした臨時政府が樹立される[191]。方や、労働者や兵士を中心としてソビエト(評議会)が結成されて、ロシアは二重政府状態となる[191]。そして、レーニンがスイスから封印列車によって帰国を果たす[192]。これはドイツ側の思惑であり、レーニンを帰国させて、レーニンの働きかけによって第一次世界大戦からロシアが離脱することを企図したものである[192]。レーニンは戦争の即時講和を訴え、社会主義を掲げた四月テーゼ(1917年4月)を提唱した。レーニンの派閥、社会民主労働党左派ボリシェヴィキは兵士や農民の支持を集めることに成功する[197][191]。こうして、1917年10月の十月革命によって、臨時政府は打倒された[191]。
その後、ボリシェヴィキと社会革命党左派によるソビエト政権が樹立されたが、選挙の結果社会革命党が第一党となってしまい、これを気に入らなかったレーニンは議会を強制的に解散させて、独裁体制へと突き進むようになる[191][198]。レーニンは、ロシアが社会主義ソビエト共和国であることを宣言して、社会主義体制を掲げる[198]。この頃からロシア内戦が勃発する[199][187]。そして、1918年春、ボリシェヴィキは社会民主労働党をロシア共産党へと変更する[198][200][201]。政党内には、政治局や書記局などの組織が1919年3月に整備される[200][201]。
ソビエト政権は、1918年3月にドイツと単独講和を行い、ブレスト=リトフスク条約を調印する[200][198]。これはドイツにとって有利な条件を承諾したために、反ボリシェヴィキ派の反対に遭い、(条約調印だけが原因ではないが)内戦が本格化する[202]。諸外国はこの内戦が自国へ波及するのを恐れ、対ソ連への干渉戦争を1918年から1922年にかけて起こし、シベリア出兵が行われる[202]。レーニンは対抗手段として、コミンテルンを組織して、全世界に対して資本主義の打倒と闘争を呼びかけた[202][187]。
内戦では、ボリシェヴィキ側はトロツキーが赤軍を組織し、臨時政府を中心とした派閥が白軍を組織し、内戦が展開される[187]。内戦では、白軍は組織が各地域に分散して、分かれて赤軍と戦っていたため、指揮系統をきちんととることができず、1922年11月頃には内戦は終戦を迎える[203][192]。内戦は赤軍有利であったが、この頃ポーランドと領土を巡り戦争が起き、赤軍が敗北して、ポーランドはウクライナ西部、ベラルーシ西部を獲得し、ベッサラビアはルーマニア領となった[204]。
1922年12月、ソビエト社会主義共和国連邦が樹立され、ロシア共和国、ウクライナ、ベラルーシ、ザカフカス(グルジア、アルメニア、アゼルバイジャン)の4か国による連邦が結成される[203][204][205]。後に1924年にトルクメニスタンとウズベキスタン、1929年にタジク、1936年にカザフスタンとキルギス、1940年にバルト三国とモルダヴィアが加盟する[203]。1940年までに15の共和国からなる連邦が結成される[203][204]。
ソ連時代
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ソビエト連邦が樹立されたものの、1917年から1918年にかけて行なわれた一連の改革は失敗に終わる[206]。(改革の内容は)農産物の国家専売制の導入や、企業の国有化を行っていた[206][207][208]。穀物を徴発された農民達は不満から、反乱を起こした[199]。そこで、政府はネップを導入し、国有化を一部解除、食糧についても余剰分については自由売却を認めた[208][187]。一方このネップを導入後、1921年から1922年にかけて、天候不順による大飢饉に見舞われたが、外貨獲得のため穀物の積極的輸出が行われ、数百万人が餓死したとされる[187][209]。一方、レーニンは1922年5月末に体調を崩し、回復することなく1924年1月に死去、ヨシフ・スターリンは1922年に党書記長に就任し、権力基盤を固めるようになる[210]。スターリンと対立していたレフ・トロツキーを1927年に共産党から除名処分として、1929年に国外追放処分にした[210][211]。
ネップについては、一定の効果を上げ、農業生産自体は増産されたが、農民には日常生活用品が行き渡らなかったこともあり、農民は安い価格で穀物を手放すことをためらった[199]。そうなると、国家による穀物の調達が滞り、輸出による外貨獲得に支障が生じた[209][212][213][199]。そこで、穀物の調達に不足が生じている原因は富農(クラーク)に原因があるとスターリンは考え、農業の集団化と工業の国有化を宣言する[207]。1928年に第一次五カ年計画が採択され、工業化が推進された[214]。スターリンは1931年秋までに農業の集団化を完了するものとして、強引に推し進め、抵抗する農民は富農のレッテルを貼り、容赦なくシベリアへ追放した[215][214]。この時シベリアへ追放された人数は数百万人とも言われる[214]。

大量に追放者が発生したため、当然ながら農業生産は低下、農民も自分の家畜を集団農場コルホーズに引き渡すよりは、自分自身で殺害するという選択をする[214]。ソ連政府は、そのような状況でも目標の穀物を調達して、外国へと輸出して、欧米からの機械購入の資金に充当した[213]。これが、飢餓輸出となりホロドモールと言われ、ウクライナを中心として1932年から1933年にかけて大量の餓死者が生じた[213][216]。この飢餓輸出の犠牲者の人数は文献により異なり、数百万人、500万人、600万人などかなりばらつきがある[216][217][214][213][199][215]。ソ連政府は、目標の穀物調達を行うため、農民の移動制限のため、国内であってもパスポート制度を導入し、コルホーズの農民にはパスポートすら発行されず、徹底的に縛り付けられた[215][199][213]。この厳格な農業政策によって、穀物生産は1930年代末には農業集団化以前の水準にまで回復した[199]。農業政策が推進された結果、ソ連は世界有数の工業国となり、第一次五カ年計画途中、世界恐慌が発生したが、計画経済を敷いているソ連では、直接の影響は軽微であったが、ソ連内部では、特に農民は悲惨な暮らしを強いられていた[216][214][218]。
スターリンによる大粛清から第二次世界大戦終戦まで
[編集]1934年12月、レニングラードの共産党第一書記であるセルゲイ・キーロフが暗殺された[219][220]。スターリンはこの暗殺事件の背後に、古参党員が暗殺に関わっていたと断定し、次々に党員の逮捕と処刑を進め、大粛清の嵐が吹き荒れる[219][220][221]。この粛清は、党員や一般市民、軍の高級将校などありあらゆる者が標的となった[222]。特に軍の高級将校が逮捕ないし処刑されたことは、軍の編成や指揮系統の支障が生じ、後の独ソ戦でドイツ軍の快進撃を許すことになってしまう[222][213]。
ここからは、ソ連とソ連を取り巻く国際情勢について記載する。ソ連は1924年にイギリスと、フランスから国家として承認され、1933年にはアメリカからも承認を受ける[216]。1934年には国際連盟にも加盟する[216][219][223]。一方、ソ連から見て西方のドイツでは、1933年にヒトラー政権が樹立され、ヒトラーは領土拡大を企図し、ソ連は警戒心を強める[216]。フランスはソ連と1935年に仏ソ相互援助条約を締結するが、両国は不信感を払しょくするまでには至らなかった[216][224]。1936年にスペイン内戦が勃発すると、ソ連は人民戦線政府側として参戦し、ファシズム勢力と対抗する[223][224]。
ナチス・ドイツは積極的に領土拡大を行い、1938年にオーストリアを併合(アンシュルス)、ズデーテン地方も割譲させる[224][216][223]。これらの領土拡大について、イギリスとフランスは容認の姿勢を取ったため、ソ連側は不信感を抱くようになる[223][216][218]。そして、1939年8月には独ソ不可侵条約を締結し、世界に衝撃を与えた[216][218]。この独ソ不可侵条約には秘密議定書が存在し、ポーランドの分割、バルト三国の併合、ルーマニア領ベッサラビアの獲得が定められていた[215][223][218]。

一方、極東方面については、1931年9月に満州事変が勃発する。ソ連側の日本に対しての姿勢は文献によってやや異なり、当初ソ連は日本に対して宥和的な姿勢を取り、1932年3月に満州国の事実上の承認さえ行ったとするものや[223]、方や満州事変によって日本がシベリアへと兵を進めるのではないかと警戒し、日本に対して不可侵条約締結を打診したとするものもある[225]。いずれにせよソ連の外交姿勢としては満州国を国家としては承認していない[226]。1937年7月に日中戦争が勃発すると、ソ連は中ソ不可侵条約を締結する[223]。満州国周辺では日本との小競り合いが絶えず起きており、1939年にはノモンハン事件が勃発し、ソ連が勝利する[227][223][215]。
1939年9月1日、ドイツがポーランドを侵攻し、第二次世界大戦が勃発する[222]。ソ連は独ソ不可侵条約の秘密議定書に基づき、ポーランドを分割した[222][216]。その後、フィンランドを自国領とするため、1939年12月、冬戦争が勃発し、ソ連は何とか勝利を収める[222][216]。ソ連は戦争に加担したため、国際連盟を除名される[222][216]。
ソ連側はドイツと日本の二正面作戦を回避するため、1941年4月に日ソ中立条約を締結する[218][227]。

その後、1941年6月22日、ドイツは独ソ不可侵条約を破り、ソ連を攻撃し、独ソ戦が開戦された[222][218][228]。スターリンは事前にドイツによる侵攻作戦があることを知らされていたが、それを信用せず対応が遅れてしまう[228][222]。ドイツ軍は破竹の勢いで進撃し、ソ連はスターリンの大粛清によって、高級将校が不足していたために軍の指揮系統に支障が生じ、各戦線で敗退を繰り返した[213][228]。1941年11月末にはモスクワ至近にまで迫るが、これを何とか押し返した[213][228]。その後第二次世界大戦は、1943年2月のスターリングラード攻防戦で勝利し、同年8月クルスクの戦いでも勝利したため、ソ連軍の優勢が決定的となる[227][229][230]。第二次世界大戦中の1945年2月、ヤルタ会談によってソ連の対日参戦が決定され、1945年5月2日、ソ連はベルリンを陥落させ、ヨーロッパ戦線は終戦する(終戦は5月9日)[230][229]。
その後1945年8月8日、ソ連は日本に宣戦布告し、南樺太、千島列島を占領した[231][229]。ソ連は60万人から70万人の日本兵を捕虜とした(シベリア抑留)[227][232]。第二次世界大戦によるソ連の犠牲者は2600万人~2700万人に達したとされる[217][233][234]。
戦後と東西冷戦
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第二次世界大戦後、多大な犠牲を出したソ連では男性の労働力が不足し、復興が急がれた[235]。だが、そのような状況であっても、共産党員の多かったフランスに対して1946年から1947年にかけて大量の穀物の輸出がなされ、100万人以上が餓死したとされる[232][236]。元々ソ連と米英は第二次世界大戦中も同盟国として戦ったが、足並みはそろっておらず相互に不信感が芽生えていた[237]。1946年3月、イギリスの元首相ウィンストン・チャーチルは、鉄のカーテン演説を行ない、1947年3月には、トルーマン・ドクトリンによってソ連の脅威が強調され、米英とソ連との間に対立が深まる[237][238][239]。そして、アメリカ主体でヨーロッパの戦後復興のためマーシャル・プランが提唱される[217][237][239]。ソ連もこの復興プランへの参加資格があったが、ソ連はこれを拒否して、コミンフォルムを結成して、東欧諸国を取り込み、ポーランドやチェコスロバキアなどの5か国と経済相互援助会議(コメコン)を結成して対抗した[217][237][239]。1948年春にはベルリン封鎖など、アメリカを主体とする西側諸国と、ソ連を主体とする東側諸国の対立は決定的となり、冷戦へと突入する[217][237][239]。1949年8月、ソ連はアメリカに引き続き原爆実験に成功し、原爆保有国となり、核兵器によってアメリカと対抗するようになる[217]。この1949年には、西側諸国の安全保障体制を強化するため、NATOが結成、NATOへの対抗のため遅れること1955年にワルシャワ条約機構が結成された[217]。
一方朝鮮半島でも、北緯38度線を起点として、以北をソ連が、以南をアメリカが占領していたが、ここでも金日成を指導者とする朝鮮民主主義人民共和国と、南側の大韓民国との対立が深まり、1950年6月、朝鮮戦争が勃発する[217][237]。朝鮮戦争ではソ連は表立って軍を派遣しなかったが、ソ連軍パイロットが正体を隠して参戦していた[233]。朝鮮戦争は1953年7月に休戦する[233]。

朝鮮戦争の休戦直前にスターリンが死去し、後継者にラヴレンチー・ベリヤが有力視されていたが、周囲の党幹部から反感を買い、処刑された[217][240][241]。結局、ニキータ・フルシチョフが指導者となり、1956年2月の第20回ソ連共産党党大会でスターリン批判を行った[242][240]。このスターリン批判は当初極秘報告であったが、間もなく世界に知られることとなる[240][243]。スターリン批判がきっかけとなり、社会主義体制に動揺が生じ、ポーランドでは1956年6月にポズナン暴動が起き、ハンガリーでは同年10月にハンガリー動乱が起きる[242][240]。ポズナン暴動はポーランド政府が暴動を鎮圧し、ハンガリー動乱については、ソ連軍が介入して鎮圧した[242][244][245]。
ソ連の交戦国の一つである日本とは、1955年に国交回復に向けた交渉が始まる[240]。日本政府は1951年のサンフランシスコ平和条約において、南樺太、千島列島について主権を放棄することが定められた[246]。そして、日本政府は当初北方領土[注 9]については、歯舞、色丹の二島返還が実現すれば良いと考えていた[248]。ソ連も歯舞諸島、色丹の二島返還を申し出て、一時は合意に近づいたが、外務省内では四島返還を求める派閥があったこと、アメリカの国務長官ジョン・フォスター・ダレスは、日本が千島列島の主権をソ連が認めた場合は、沖縄返還を行わないと日本外相重光葵に通告した(ダレスの恫喝)[248]。以上により、日本政府は二島返還ではなく、四島返還を基本姿勢とした[248][249]。結局北方領土は棚上げとなり、1956年10月に日ソ共同宣言が出され、ソ連と日本の間に国交が樹立された[248][249]。
フルシチョフは、1954年から1958年にかけて、シベリアとカザフスタン北部、ロシア南東部のステップ地帯で処女地開拓を行い、当初はうまく行ったものの、連作によって土地が痩せ、気候的に栽培が難しいトウモロコシを作付するなど不適切な農業施策を行い、失敗に終わる[250][251][252]。

一方、ソ連は宇宙開発の面では、1957年に スプートニク1号の打ち上げに成功し、ユーリイ・ガガーリンが1961年に世界初の有人飛行を成し遂げ、成果を出した[250][238]。フルシチョフ時代のソ連では、中国と関係が悪化する[242]。中国とは1950年に、中ソ友好同盟相互援助条約を締結していたが、フルシチョフがスターリン批判を行うと、中国はスターリンを評価していたため、中国との関係が悪化し始める[242][237][253]。1958年、中国は台湾を攻撃するが(金門砲戦)、ソ連はアメリカとの対立を回避するため介入せず、1960年にはフルシチョフは中国にいたソ連の技術者を引き上げさせたことから、共産党内で批判にさらされる[242][253][254]。1961年には、ベルリンの壁構築を認可した[238]。
1959年、キューバでフィデル・カストロによる革命が成功し、社会主義政権が樹立される[242]。フルシチョフはカストロを支援し、1962年、ソ連はキューバにミサイル基地建設を進めていた[242]。だが、このミサイル基地建設がアメリカの知るところとなり、1962年10月、キューバ危機が勃発する[242][238][255]。キューバ危機は、結果的にフルシチョフ側がアメリカのケネディ政権に譲歩することで最悪の危機は回避されたが、これはフルシチョフの権力の失墜へとつながる[255][254]。キューバ危機後の1963年、アメリカと部分的核実験禁止条約が調印されたが、これもソ連本土では評価されず、弱腰外交と考えられた[242]。フルシチョフは一連の改革を行っていたが、いずれも成果を挙げたとはいいがたく、独断専行が目立ったため、周囲の幹部から顰蹙を買い、1964年10月に解任された[242][254][255]。

フルシチョフ失脚後、レオニード・ブレジネフが第一書記に、アレクセイ・コスイギンが首相、ニコライ・ポドゴルヌイが最高会議議長となり、トロイカ体制が構築された[256][257][258]。だが、次第にブレジネフが権力を掌握するようになる[256][257][258]。ブレジネフが指導者となり、1968年にはプラハの春が起こり、ブレジネフはワルシャワ条約機構を使用して、鎮圧させた[242][257]。そして、ブレジネフは社会主義共同体の利益実現のためには、一国の主権が制限されうるというブレジネフ・ドクトリンを提唱し、プラハの春の介入を正当化した[259][260][256]。ブレジネフ時代、ソ連はアメリカと対立しつつも平和共存とデタントに向けた外交が展開される[238]。核兵器の所有と維持が大きな負担となっていたため、アメリカとはSALT Iを1972年に締結して、核兵器の保有数を制限した[261][256][238]。1975年には、アポロ・ソユーズテスト計画が行われる[238][262]。ブレジネフ政権時代、中国とは、1969年3月にダマンスキー島を巡る国境紛争が勃発し(中ソ国境紛争)、同年9月、首相のコスイギンと周恩来が会談した結果、武力衝突は沈静化する[253][256]。中国は表面上、アメリカを非難しつつも水面下ではアメリカとの国交正常化に向けて動き出し、1972年2月にニクソンの訪中が実現する[253]。ソ連と中国は対立を深め、中国とアメリカは1979年に国交が正常化され、中国はソ連に対して、中ソ友好同盟相互援助条約の破棄を通告し、中国との対立は深まる一方だった[253]。
ブレジネフ政権時代、内政面では良く言えば安定した時代、悪く言えば停滞した時代を迎え、大幅な改革が行われなくなった[263]。官僚組織を安定化させるために、人事組織は停滞して、官僚による汚職や腐敗が常態化し、労働規律も飲酒などによって完全に弛緩していた[263][256][264]。

1970年代後半になると、ソ連はアフリカなどの第三世界への進出が相次ぎ、アメリカとのデタントが崩壊へと向かう[238][265][264]。
1978年4月30日、アフガニスタンではクーデターが勃発し、アフガニスタン民主共和国という親ソ連の社会主義政権が樹立される[266][267]。アフガニスタンの首相兼大統領となったヌール・ムハンマド・タラキーは急進的な社会主義政策を推進したため、民衆の反感を買い、1978年10月には、反政府軍と政府軍が衝突し、内戦状態に突入する[268]。政府内では、タラキーと1979年3月に外務大臣から首相となったハフィーズッラー・アミーンの間で対立が深まる[269][270]。内戦状態のアフガニスタンに対して、ソ連は逐一兵力を投入していたが、内戦は収まる気配は無かった[271]。1979年9月、タラキーは健康問題によって、大統領を退任し[注 10]、アミーンが大統領に就任し、彼はソ連と距離を置くことを考える[272]。内戦は一向に収まらず、1979年12月18日、ソ連はソ連軍を投入し反政府勢力(ムジャーヒディーン)の抵抗を一時的に抑えつけることに成功する[271]。だが、アミーンはこのソ連軍の行動に抗議し、ソ連との対立が決定的となる[271]。これによって、ソ連側はアミーンの排除を決定し、12月27日にアミーンはソ連の特殊部隊によって殺害された[273][274]。これがアフガニスタン紛争の始まりである[256][261]。だが、これは国際社会から非難されることになり、1980年開催のモスクワ五輪では、出場ボイコットを行う国が相次いだ[261][256]。ブレジネフは1982年11月に死去し、ユーリ・アンドロポフが指導者となる[275]。アンドロポフは汚職撲滅や規律の引き締めを打ち出していたが、長年病気を患っており、執務に耐えられる状況ではなかった[275]。アンドロポフが指導者時代の1983年9月、大韓航空機撃墜事件が起こり、ソ連はまたもや国際的な非難にさらされることになる[275]。結局アンドロポフは1984年2月に、在任1年数か月ほどで死去してしまい、後を継いだのはコンスタンティン・チェルネンコであったが、彼も就任当時高齢で病気を患っていたため、1985年3月に、在任1年数か月ほどで死去してしまう[264][275][276]。 チェルネンコ死去後、若い指導者が求められ、当時54歳でソ連では若手のミハイル・ゴルバチョフが指導者となる[277][278][244]。
ゴルバチョフとソ連崩壊
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指導者となったゴルバチョフは、ソ連の立て直しを迫られた[261]。ゴルバチョフはアンドロポフと同様に、規律の引き締めが打ち出され、そして、グラスノスチとペレストロイカも打ち出された[279]。1986年4月、チェルノブイリ原子力発電所事故が発生し、その時の事故対応が拙劣であったため、グラスノスチが進むようになる[279][277]。ペレストロイカについては、その内容や定義は不明瞭であったが、1988年6月頃から、政治改革に重点が置かれるようになり、ある程度の自由選挙の導入と地方への統制が緩和された[280][277][281]。外交面では新思考外交を打ち出し、核兵器の実験停止、中距離核戦力全廃条約の締結(1987年)、アフガニスタンからの撤兵(1989年2月に完了)、START1が締結(1991年)された[280][279][277][238][282]。ゴルバチョフは、ブレジネフ・ドクトリンを廃止して、東欧に対して自立を促す新ベオグラード宣言を1988年に打ち出し、東欧に民主化の波が訪れる[260][283]。1989年9月、ポーランドで非共産党政権が樹立されると、東欧諸国で次々に共産党政権から非共産党政権にとって代わられた(東欧革命)[260][280][282]。ベルリンではベルリンの壁が崩壊する[284][238]。1989年12月、マルタ島でアメリカ合衆国大統領ブッシュと会談の場が設けられ、冷戦終結が宣言された[260][238]。中国とは、1989年5月、ゴルバチョフが北京を訪問して、両国関係の正常化を盛り込んだ共同コミュニケを発表する[260][253]。
エリツィンの台頭とソ連崩壊へ
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ペレストロイカによる改革を推進するゴルバチョフであったが、1987年10月、モスクワ市党委員会第一書記のボリス・エリツィンが、ペレストロイカの改革速度が遅いと保守派の幹部を非難したことから、ゴルバチョフはエリツィンを解任し、エリツィンは一時失脚する[279][285]。だが、これは却ってエリツィンの支持が高まる要因となる[279][285]。ペレストロイカの一環として導入された自由選挙によって、エリツィンは1989年の人民代議員選挙でモスクワ代表として選挙で選ばれた[280][281]。この1989年の人民代議員選挙では、共産党幹部が主要都市で軒並み落選したため、最早共産党が国民から支持されていないことが明らかになる[286]。1990年になると、共産党書記長の権威は低下し、ゴルバチョフは大統領制度を導入し、権威を高めようとするが、バルト三国のリトアニアが独立を宣言する[260][287][288]。1991年にはリトアニアの独立宣言を巡り、武力衝突が起きるが、独立を欧米諸国から承認され、エストニア、ラトビアも続いた[260][287][288]。ソ連邦を構成する最大の共和国であるロシア共和国は、1990年6月に主権宣言を採択して、モスクワにはソ連とロシア共和国の二重権力状態となり、1991年3月、連邦の維持の是非を巡り、国民投票がソ連を構成する9つの共和国で実施され、連邦制度の維持が確認された[282]。そして、新連邦条約案が1991年8月に公表されるが、保守派幹部はその内容に不満を持ち、クーデターを起こす(ソ連8月クーデター)[289][282]。クーデターはロシア共和国大統領のエリツィンが不支持の姿勢を打ち出したため、失敗に終わる[289][282]。エリツィンは、共産党の活動停止の大統領令を発令し、1991年12月7日、ロシア共和国大統領エリツィン、ウクライナ大統領クラフチューク、ベラルーシのスタニスラフ・シュシケビッチ最高会議議長との間で、ソ連崩壊と、独立国家共同体樹立が合意され、12月25日、ゴルバチョフはソ連邦大統領を辞任し、こうしてソ連は崩壊した[290][277][291]。
ロシア連邦時代
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1.アルメニア 2.アゼルバイジャン 3.ベラルーシ 4.エストニア
5.ジョージア 6.カザフスタン 7.キルギス 8.ラトビア 9.リトアニア
10.モルドバ 11.ロシア 12.タジキスタン 13.トルクメニスタン
14.ウクライナ 15.ウズベキスタン
ソ連崩壊後、エリツィンがロシアの改革を開始する[292]。経済の自由化や、国営企業の民営化、外資企業の流入などを行ったが、急速な自由化は社会が混乱した[292]。西側諸国の優れた製品が流入したことで、ロシア国内の産業は空洞化してしまう[292]。それまでの統制経済を停止して、価格の自由化などのショック療法を行ったために、食料品価格は高騰し、ハイパーインフレとなってしまう[293][294]。国営企業の民営化について補足すると、1992年10月から国営企業の民営化が行われたが、成果は上がらず、1994年に基幹産業の民営化が行われたが、特定の大企業が超優良企業を談合によって安く入札し、オリガルヒが誕生することになる[293][294]。オリガルヒはテレビ局や新聞社などのマスメディアを支配し、政界にたいして影響力を行使するようになる[293][294]。エリツィンはオリガルヒと癒着して、大統領の地位を維持するという状態だった[293][294]。経済状態については緊縮財政や、IMFの介入によってでも上向くことが無く、1998年初頭には通貨のデノミが実施された[293]。その後もアジア通貨危機が、ロシアにも波及し、ロシアの経済状態は悪化の一途をたどった[293][294]。エリツィン政権時代、チェチェンが独立を要求するが、石油のパイプラインの輸送などの関係上、独立を認めず、1994年12月チェチェンを攻撃する(第一次チェチェン紛争)[295][293][296]。

1999年8月、ウラジーミル・プーチンが首相に任命される[292][295]。プーチンは元々KGBの局員で、KGBを退職後に政界進出を果たし、FSB長官を経て、1999年8月、エリツィンによって首相に任命されるが、この時点では国際的には無名な存在であった[297][298]。首相となったプーチンであったが、第二次チェチェン紛争が勃発し、プーチンはこれに断固とした姿勢で挑み、国民から支持を集める[295][293]。1999年12月、エリツィンは健康上の問題やオリガルヒとの癒着による批判から、大統領を辞任する[293][292]。辞任する際、エリツィンはプーチンを後継者に指名し、プーチンは2000年に大統領選挙の勝利によって、大統領に就任する[298][292]。プーチンが大統領となり、2002年10月、モスクワ劇場占拠事件が起こり、2004年9月には北オセチア共和国ベスラン市のベスラン学校占拠事件が起こるが、これを鎮圧し、チェチェンに対しては断固たる姿勢を取った[299][300][296]。プーチンの大統領就任前後、原油高になり、天然資源の豊富なロシア経済は2000年から2008年まで、年平均GDP成長率は7 %を記録し、テロに対する断固とした姿勢もあり、プーチンは国民から支持を得る[297][295][298]。プーチンはオリガルヒとの対決姿勢を鮮明にする[301][302]。オリガルヒは政治に干渉し、それによって政府との癒着や汚職を生んだという経緯があった[303]。プーチンはこれらオリガルヒを様々な罪状で逮捕ないし、国外追放として、大手のテレビ局を政府の管理下に置いた[297][303][301][298]。
ロシア憲法では3期連続の大統領就任は許されていないため、一旦ドミートリー・メドヴェージェフが大統領となる[297][298]。2008年8月、ジョージアには自国内にアブハジアと南オセチアという自治領があり、同地は親ロシアの住民が多く、ジョージアは同地を攻撃し、ロシアは南オセチア支援のため、ジョージアと交戦する(南オセチア紛争)[299][304]。停戦後、ロシアは南オセチアとアブハジアを国家として承認する[304]。この2008年8月には、リーマン・ショックも起こり、原油価格が下落し、ロシア経済は痛手を被る[297][298]。
2012年、プーチンは大統領選挙に出馬し、再び大統領となる[298][299][305]。ウクライナでは、2004年の大統領選挙では親ロシア派が勝利するが、不正選挙のため政権交代が起きた(オレンジ革命)[304]。オレンジ革命によって親欧米派のヴィクトル・ユシチェンコが大統領となるが、混乱が続き、2010年の大統領選挙では親ロシア派のヴィクトル・ヤヌコーヴィチが当選する[306]。クリミアのロシア艦隊駐留の延長を求めると、親欧米派がこれに抗議し、2014年ヤヌコーヴィチは亡命(マイダン革命)、クリミア半島で親ロシア派の住民が独立を問う住民投票を実施して、ロシアがこれに介入して、クリミア半島とセヴァストポリを自国領内に編入した(ロシアによるクリミアの併合)[306]。クリミアについては、住民投票によって独立が賛成多数となり、ロシアが事実上実効支配を行っている[306][299]。2020年に行われた国民投票によって、プーチンが2030年の大統領選挙に立候補して、選挙に勝利すれば、2036年まで(大統領職が)続投可能であることが決定した[307][308][298]。

ロシアの隣国であるウクライナはNATO加盟の意向を示し、2022年2月、ロシアはウクライナに侵攻した(ロシアのウクライナ侵攻)[307][309]。
2024年ロシア大統領選挙ではプーチンが5選された[310]。
年表
[編集]- 862年頃 - 現在のロシアの初の国家が成立する[1][21]。
- 882年 - オレーグがキエフを占領して、キエフ・ルーシが成立する[1][19]。
- 1132年 - キエフ・ルーシ内の公国が分立し始める[13]
- 1223年 - モンゴル帝国による攻撃を受ける(カルカ河畔の戦い)[46]。
- 1237年 - モンゴル帝国のバトゥの軍隊がリャザン公国を攻撃し、タタールのくびきが始まる[43]。
- 1380年 - モスクワ大公ドミトリー・ドンスコイがクリコヴォの戦いでジョチ・ウルスに勝利[57][63]
- 1480年 - ウグラ河畔の対峙で、タタールのくびきが終了する[52][69]。
- 1598年 - リューリク朝が断絶する[74][87]
- 1613年 - ミハイル・ロマノフが君主となり、ロマノフ朝が成立する[81][85]。
- 1689年 – ピョートル1世が皇帝となる[99]。
- 1700年 – スウェーデンとの北方戦争が開戦、1721年にニスタット条約が締結され勝利に終わる[99][78]。
- 1762年 – エカチェリーナ2世が即位する[108][311]。
- 1805年 - アウステルリッツの戦いでナポレオンに敗北、ナポレオンと和平を締結[134][138]。
- 1812年 - ナポレオンの軍がロシアを侵攻、モスクワで敗走させ、1814年3月にパリを陥落させる[134][133]。
- 1853年 - クリミア戦争が勃発し、敗戦[151][148]。戦後1856年にパリ講和条約が締結される[151][148]。
- 1861年 - 農奴解放令が発布[147][156]。
- 1894年 - ニコライ2世が皇帝となる[167][185]
- 1904年 - 日露戦争が勃発、敗戦し、1905年にポーツマス条約が締結[172][169]。
- 1917年 - 2月革命などデモ活動が多発し、ニコライ2世が退位を表明、ロマノフ朝が終焉する[312][195]。
- 1918年 - ロシア社会主義連邦ソヴィエト共和国が成立する[198][204]。
- 1922年 – スターリンが共産党中央委員会書記長に就任(レーニンは1924年死去)[313][314]。
- 1941年 - 独ソ戦勃発[222][228]。
- 1945年 - 独ソ戦終戦及び対日参戦[227]。
- 1953年 - スターリンが死去し、フルシチョフが共産党第一書記に就任する[240][243]。
- 1964年 – ブレジネフが共産党第一書記に就任する[251][258]。
- 1979年 - アフガニスタンへ軍事介入する[238][244]。
- 1985年 – ゴルバチョフが書記長に就任する[261][279]
- 1991年 - ソ連が崩壊し、ロシア連邦となる[289][282]。
- 2000年 - プーチンが大統領となる[297]。
- 2008年 – メドヴェージェフが大統領となる[299][305]
- 2012年 - プーチンが再び大統領となる[299][297]。
- 2022年 - ウクライナ侵攻作戦が開始される[307][315]。
脚注
[編集]注釈
[編集]- ↑ 伝承とはされているが、一応歴史として受容されている[1]
- ↑ モンゴルから中央アジアを経て、黒海沿岸にまで続く草原地帯
- ↑ ユーリーの弟
- ↑ ただし、これによってモンゴルが全滅して、安寧がもたらされたという訳ではない[72]
- ↑ 西欧に憧れを持っていたピョートル1世は西欧では髭を剃る習慣になっていたことを受けて設定した[110]
- ↑ 農奴が除外されたのは、農奴を支配する領主で代用できると考えられたため[122]
- ↑ 加盟国はイギリス、オーストリア、ナポリ、ポルトガル、オスマン帝国[132]
- ↑ 火事がロシア側による放火であったか、失火であったかは文献によって異なっている[129][135][137]
- ↑ 北方領土と呼称されるようになるのは1956年3月のことであるが[247]、ここでは敢えて北方領土と記載する
- ↑ その後間もなくタラキーは急死するが、暗殺されたとする説が濃厚である[272]
出典
[編集]- 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 和田 & 2023_上, 位置No.97-165/3626.
- 1 2 「スラヴ人の前にロシアに住んでいたのは誰か?」『ロシアビヨンド』2021年11月4日。2026年8月14日閲覧。
- ↑ 「デニソワ人 知られざる祖先の物語」『ナショナルジオグラフィック』2013年6月19日。2026年8月14日閲覧。
- ↑ 「土器はいつから? 人類文化の画期を探る」『ChuoOnlie』2012年8月20日。2026年8月14日閲覧。
- ↑ 石黒 1981, p. 12.
- 1 2 3 4 チャノン&ハドソン 2014, pp. 14–17.
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- ↑ 石黒 1981, p. 106.
- 1 2 石黒 1981, p. 144.
- 1 2 3 4 5 チャノン&ハドソン 2014, pp. 10–13.
- ↑ 石黒 1981, p. 195.
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- 1 2 関 2020, 位置No.156-171/1907.
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- 1 2 3 4 島崎 2022, pp. 42–46.
- 1 2 3 4 5 関 2020, 位置No.171-190/1907.
- 1 2 3 4 5 三浦 2003, 位置No.171-249/4075.
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- 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 宮野 2023, 位置No.116-182/1955.
- 1 2 土肥 2016, 位置No.197-227/4671.
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- 1 2 3 4 土肥 2016, 位置No.227-262/4671.
- 1 2 3 和田 & 2023_上, 位置No.583-626/3626.
- 1 2 3 4 5 6 7 関 2020, 位置No.201-225/1907.
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- 1 2 3 土肥 2016, 位置No.571-655/4671.
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- 1 2 3 4 和田 & 2023_上, 位置No.2010-2080/3626.
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- 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 関 2020, 位置No.535-566/1907.
- 1 2 3 4 5 6 土肥 2016, 位置No.665-735/4671.
- 1 2 3 4 下斗米 2016, pp. 81–87.
- 1 2 3 関 2020, 位置No.499-528/1907.
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- 1 2 3 4 5 和田 & 2023_上, 位置No.2080-2129/3626.
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関連項目
[編集]外部リンク
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