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日系アメリカ人の歴史

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

日系アメリカ人の歴史(にっけいアメリカじんのれきし)では、主に明治維新から現代にかけて、日本からアメリカ合衆国に移住した、在米日本人及びその子孫である日系アメリカ人(ハワイにおける日本人移民を含める)の歴史について記述する。

移住の始まり

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シアトルで開催されたアラスカ・ユーコン太平洋博覧会(英語版)の「日本日」におけるパレードの様子(1909年9月4日撮影)

記録上残っている北米に初めて上陸した日本人は、1587年10月にフランシスコ会の宣教師であるマルティン・イグナシオ・デ・ロヨラに同行した少年だったとされている。

具体的な氏名が記録されている事例としては、1610年の田中勝介によるものが、最古のものとされている。

小栗重吉は、1815年にカリフォルニア州へ、音吉を含めた宝順丸の船員3名は、1834年にワシントン州へあたる地域に降り立った、それぞれ初めての日本人だった[1][2]。

1853年のマシュー・ペリーによる黒船来航を機に、日米両国は和親条約と修好通商条約を締結し、鎖国は撤廃される事となった。

日本からのアメリカ合衆国への移住は、主に経済的な動機によるものだった。日本の人口密度は、1872年は91.2人だったものから、1903年には119.3人にまで増加。これに伴い、労働者の失業率と生活環境は、悪化の一途を辿っていた。こうした経済状況の停滞を背景に、多くの日本人がより良い生活を求めて、国外へ新天地を求めるようになった。日本の4~10倍とも謳われた給金を得られる「理想郷」で、移住者達が相次いで成功を収めているという風聞は、アメリカへの移民の増加を後押しする事となった。特に、日本では長子相続のような慣習がある背景もあって、海外で大金を稼ぎ「故郷に錦を飾る」事を目的とした、農家の次男以下による移民が、増加するようになった。1870年の時点で、アメリカに居住している日本人は、僅か55名だったものの、1890年までに約2,000人が、新たに到着する事となった[3]。

1882年に制定され、1902年に恒久的な措置となった『中国人排斥法』は、日本人が中国人に取って代わる「安価な労働力」としての需要を、高める要因となった。結果として、1901年から1908年にかけて、約12万7,000人の日本人が渡米する事となった[4]。

特に、日露戦争後に起きた戦後恐慌の影響により、1907年には1年間当たり3万人もの日本人移民が、アメリカ本土へ渡った。彼等は、カリフォルニア州を中心とした西海岸へ居住するようになった[3][4]。

出稼ぎ労働者以外にも、著しい経済発展を遂げるアメリカで、日本の近代化に役立たせる事の出来る知識や技術を習得する事を目的とした「書生」が、1881年頃から個人で西海岸へ渡航し始めた。1890年には、約4,000人の日本人書生が、主にサンフランシスコやオークランドに居住するようになった。ただ、その大半が所持金もないまま渡米した為、数人で「穴蔵同様の地下部屋」を借りて、労働の合間に勉学を続けるという、苦学生活を送っていた。また彼等は、同地でキリスト教系の「福音会」や自由民権運動派の「日本人愛国同盟」をはじめとする、宗教的かつ政治的な団体を創設した。

こうした書生達は、在米時に学んだ事や体験を活かして、帰国後には日本社会の各方面で活躍するようになった。一方で、アメリカに留まる道を選んだ者達は、総じて日系コミュニティにおける指導者となった。日本人の出稼ぎ労働者が、ハワイや西海岸に定住する覚悟を決めた際、アメリカの事情に精通し、英語に堪能な「居残り書生」が、日系コミュニティで果たした役割は、非常に大きいと言える[5]。

排日機運の高まり

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アジア排斥同盟が、サンフランシスコ市民に向け、日系人学童を地元公立学校から隔離させる事を、呼び掛ける為に配布したリーフレット

しかし、日本人移民を厳しく制限したアメリカの移民法は、法に基づいた同国における差別の歴史を象徴するものであった。日本人移民の数が増えるにつれ、農業分野で次々と成功を収める姿に対する反感と「黄禍論」の台頭が、嘗て中国人移民が直面したもの[注釈 1]と類似した、反日運動の高まりに繋がる事となった[7]。

「アジア排斥同盟」とサンフランシスコ教育委員会からの圧力により、セオドア・ルーズベルト大統領は、1907年に「日米紳士協約」に関する交渉に取り組む事となった。これに伴い、日本国政府は、アメリカへの労働移民を目的とした日本国民には、パスポートを新規発行しない事に合意し、日本からアメリカへの新規移民を、事実上排除する事となった。同時に、アメリカ側は、

  • 既に居住している日本人移民の存在を受け入れる。
  • 日本人移民の妻や子供、両親の移民を許可する。
  • 永住を目的としない、留学生やビジネス関係者の渡米を許可する。
  • カリフォルニア州の学校における、日系人の子供に対する法的差別を回避する。

事などに同意した。

これに伴い、独身である日本人移民の男性が、アメリカで家庭を築き、日系コミュニティを存続させる為には、写真や履歴書などを交換するだけで、実際には面識のないまま入籍し、ビザを取得するという法の抜け道を利用した「写真花嫁」に頼らざるを得なくなった。これにより、1908年から1920年にかけて、『「写真結婚婦人」呼び寄せ証明書』を発給された約2万人の日本人女性が、ハワイを含めたアメリカへ渡る事となった[8]。

しかし、排日論者達はこうした「写真婚」を「愛と道徳に欠けた、野蛮で非文明的、反道徳的な習慣」と非難した。その為、「写真花嫁」を呼び寄せようとする1世の男性達は、暫くすると必然的に、自ら日本に一時帰国し、結婚の手続きを行うようになった。

それに伴う形で、日本人移民の家庭に出生する、アメリカ市民権を持つ子供が増加。また、各種宗教施設や婦人会、日本語学校などが、相次いで設立されるようになった事で、日系コミュニティの生活は拡大した。こうした背景を基に、1世達の間には、アメリカに定住する決意が、芽生える事となった[9]。

因みに、アメリカの日系コミュニティにおける女性の比率は、1900年には4%だったものが、1910年には12.6%、1920年には34.5%、1930年には41.1%にまで上昇した[8]。

1924年に連邦議会で『排日移民法』が可決された事に伴い、写真花嫁を含めたアメリカへの日本人移民の送出は、事実上停止される事となった。

「日本人会」の取り組み

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地方日本人会

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日本人移民が、アメリカで「安価な労働力」として歓迎されていた時期は、これといった排日問題は起こらなかった。しかし、日露戦争を境に、日本という国家がアメリカにとっての脅威と見なされるようになると、日本人移民は一転して、排斥の対象となった。こうした情勢に対処すべく、サンフランシスコの「在米日本人連合協議会」、ワシントン州の「ワシントン州日本人会」[注釈 2]に代表される地方日本人会が、各地で多く結成された。

地方日本人会の主な業務としては、

  • アメリカへの再入国や、親族の呼び寄せに必要となる、証明保証書類の作成
  • 生活困窮者の救済
  • 日本人の為の児童養護施設や日本語学校への補助
  • 天長節奉祝行事の主催
  • 日本人墓地の整備

など、日常生活に密着したものの他、

  • 日本から著名人や帝国海軍の練習艦隊が、来訪及び寄港した際に、大規模な歓迎会を催す。
  • 独立記念日をはじめとした、国や州の祝祭日に、日米の友好親善をイメージした山車を曳き出す。

といった「良き“大日本帝国臣民”かつ“定住外国人”」であろうと心掛けるその姿勢を、日米両国に周知させる為の活動にも、取り組んでいた。

また、シアトルの「北米日本人会」は、1921年にはアメリカにおける初の2世組織となる「シアトル革新市民連盟」の設立を支援。この事が、2世グループによる連絡網の整備を促進しただけでなく、後に「日系アメリカ人市民同盟 (JACL)」が設立されるきっかけともなった[10]。

連絡日本人会

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アメリカにおける太平洋沿岸地域の日本人会は、管内に住む日本人が、領事館に願い出る各種証明の保証を請け負うにあたって、互いに連絡を取る「連絡日本人会体制」を築いた。例えば、ワシントン州の地方日本人会は「米国北西部連絡日本人会」に属していたが、同連絡日本人会は、15の地方日本人会を束ねていた。

活動内容としては、第一には、現地の日本人が領事館に提出する各種書類の記載内容を、保証する事であった。大日本帝国憲法下における在米日本人は、あくまでも「大日本帝国臣民」であった。「日米紳士協約」に基づく厳しい出入国制限を行っていた日本国政府は、在米日本人への監視を怠らなかった。その為、在米日本人は、移民として渡米する事が叶っても、

  • 在留証明書 - 徴兵猶予を願い出る際、または日本に一時帰国し、アメリカへ再入国する際に必要。
  • 身分証明書 - 家族を日本から呼び寄せるに際して、身分確実である事を示す。
  • 営業証明書 - 家族を呼び寄せる、または一時帰国後に再渡米する際に、願書の住所に居住し、それ相応の事業に従事している事を証明する。

などを、必要に応じて領事館から受ける事が、義務付けられていた。こうした証明書の発行に際して、領事館は記載事項における真偽の確認を、地方日本人会と連絡日本人会に委ねた。これが、日本人会による証明保証制度である。日本人会は、申請者の記載事項に誤り無しと保証する事で、当人が領事館の査定にかなう人物である事を担保。その見返りとして、手数料を徴収した。手数料による収入は、日本人会財政の約70%にまで達し、主要な財源となっていた。こうした制度も、1926年3月を以て廃止される事となった。

第二には、帰化訴訟委員会や米化委員会、教育調査委員会などの専門委員会を設置し、日系コミュニティを取り巻く各種問題への対処にあたった事が挙げられる。帰化訴訟委員会は、上部組織である「太平洋沿岸日本人会協議会」による、小沢孝雄の帰化権訴訟を支援する決議を踏まえ、設置されたものだった。鈴木音高委員長のもと、在米日本人のアメリカにおける法的地位の向上を目指した取り組みにあたった。米化委員会は、アメリカニズム(英語版)というアメリカの国家主義に対応すべく設置されたものだった。アメリカ社会の文化や価値観、習慣に適応し、それらを主体的に受容する事で、自己の変革を図っていこうとする運動を進めた。1921年に、ワシントン州で外国人土地法が成立すると、その違憲性を訴える訴訟活動を展開した。教育調査委員会については、後述を参照されたし[11]。

太平洋沿岸日本人会協議会

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1914年には、カナダからカリフォルニア南部に至る沿岸地域における各連絡団体を結集させる協議機関として、「太平洋沿岸日本人会協議会」が設立された。

主な活動内容としては、アメリカに対するものとしては、上述した通り、小沢孝雄の帰化権訴訟への支援であった。日本に対するものとしては、アメリカに居住する「大日本帝国臣民」の法的地位の改善と保護を訴えたものが多かった。特に、アメリカで生まれた2世の日米二重国籍状態を解決する為の、当時の日本における国籍法の改正運動が、その代表例と言える。この運動は、2世は徴兵義務に関わりなく、本人の意思により、自由に日本国籍を放棄及び離脱できるようにと、同法の一部改正を目指したものだった。1924年の衆議院選挙にあたっては、自身達の運動に賛同してくれる代議士を送り出すべく、数千枚の応援ビラを西海岸から日本に送り届けるなど、地方日本人会→連絡団体→協議会→日本という、移民ネットワークを駆使したロビー活動を展開した。

こうした取り組みが功を奏し、同年11月に国籍法は「海外でも、生後14日以内に内務大臣(あるいは日本国政府の現地出先機関)に届け出なければ、日本国籍は有しない」とされたうえ「14歳未満の2世は両親か保護者代理が、15歳以上の2世は自らが(国籍の放棄に関する)手続きを出来る」ように改正。2世は自らを「“完全なアメリカ人”である」と言い切れる、法的な根拠を得る事となった[注釈 3]。

この協議会も、小沢訴訟における敗訴の確定と、日本の国籍法改正という目標の達成に伴い、その役割を終了。1929年のJACL設立に伴い、発展的解消を遂げる事となった[13]。

「出稼ぎ」から「定住」へのシフト

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戦前のリトル・トーキョーで、とある商店の軒先を写した一枚

上述したような、アメリカ国内における排日感情が高まり始めた情勢の中でも、当初は帰国を前提とした「出稼ぎ」を想定していた日本人移民の多くが、徐々に「定住」を想定した経済的・家庭的基盤を作る事に努めるようになった。こうした背景には、

  • 日本の農村部における経済事情が、渡米の前と後とでは、大きく変化した。日本人移民達が、当初アメリカで稼ぐ事を想定していた貯蓄額では、仮に帰国が叶っても、渡米前に望んでいた自身や家族の生活向上には「焼け石に水」の状態となった。これにより、目標達成の為に、滞在の延長を余儀なくされた。
  • 日露戦争での戦勝に伴い、日本が「列強」の仲間入りを果たし、近代化を成功させた、と自負するようになった。これにより、日本人移民達の多くは、黄禍論に基づく日本人への人種差別を、そのまま聞き入れる事は、屈辱であると捉えた。加えて、上述した小沢訴訟での敗訴により、日本人は「帰化不能外国人」と認定された事で、「在米日本人」という新たなアイデンティティを獲得。逆境の中でも、敢えてアメリカに根を下ろす事を決意した。
  • アメリカ市民権を持つ子供が生まれ、その子供達がアメリカの地で生きる事を望み、ここをおいて自分達の居場所は無いのでは、といった思いが募るようになった。

事などが挙げられる[14]。

戦前のリトル・トーキョーに立つ、菊正宗のネオンサイン

ここに至って、「手段」であったアメリカでの生活は、それ自体が長期的視野に立って、生活を維持していくという、一つの「目標」へと様変わりする事となった。

例えば、日本郵船が定期航路を開設していたシアトルでは、1930年代までに全人口368,583人のうち、日系人の人口は8,448人に達し、住民を各々が自認する出身国ごとに区分した場合、非白人としては最大、白人を含めても4番目に多い民族集団であった[15]。第二次世界大戦前の時点で、シアトルの日本町[注釈 4]は、北米西海岸では、ロサンゼルスのリトル・トーキョーに次ぐ日本人街であった[17]。

日本人移民による在米への指向が、「出稼ぎ」から「定住」へシフトするにつれ、日系コミュニティでは、世代による明確なグループが、形成されるようになった。排日移民法が施行される以前は、主に日本で生まれ育ち、移民として渡米した「1世」と、その1世を親に持ち、アメリカで生まれた「2世」が存在した。1世と2世は、子供時代に日米のどちらで学校教育を受けたか、といった事などに起因する母語や価値観の違い、アメリカ市民権の有無などの面で、世間一般で言われるジェネレーションギャップ以上の相違に、苛まれる事となった。そして、異人種間結婚禁止法(英語版)の存在といった法的側面や、人種差別の風潮から、成人した2世の多くが、同胞同士で結婚した[注釈 5]事により、生粋のアメリカ人としての「3世」が誕生するようになった[3][4][21]。

日本語教育への取り組み

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タコマで1922年に開校した日本語学校の校舎。1984年8月30日にNRHPに指定されるも、2004年に取り壊された。

黎明期の在米日本人移民社会では、未成年者は出生地が日本かアメリカかを問わず、居住地の公立学校に通うのが通例であった。しかし、20世紀に入ると、当時まだ永住目的を持っていなかった日本人の子供達の教育に関して、人種事情や言語、生活習慣が異なる異国の地で、初等教育を現地のそれに一任する事への懸念の声が、親世代から挙がるようになった。その結果、1902年にシアトルで、北米では初となる日本語学校となる「シアトル日本人会付属小学校」が開校。1907年には「シアトル国語学校(英語版)」と改称した。こうして、在シアトル日本人移民の子供達の多くが、平日は日中にアメリカ人の育成を目的とする現地の公立小学校、放課後は日本的精神の涵養を目的とする国語学校にそれぞれ通うといった、二重のナショナリズム教育を受けさせられる、過酷な生活を送る事となった。

当初国語学校において、国語と地理歴史では、日本の国定教科書が使用されていた。しかし、アメリカ国内の排日機運の高まりを受け、連絡日本人会の教育調査委員会は、国定教科書に代わる独自の教科書を編纂する事を決定。ワシントン州では、1921年から全8巻に及ぶ『日本語読本』を使用するようになった。同書の特徴は、アメリカで生活する子供達の感覚に合わせた教材を、多く取り入れた事だった。例えば、金額を表記する場合は“弗(ドル)”や“仙(セント)”の単位、手紙文に関しては、日本に住む祖父母へ、アメリカの近況を知らせるものが、それぞれ用いられていた。歴史上の人物に関しては、フランクリンやナイチンゲール、ナポレオンなどが取り上げられるなど、日本主義的なものは極力控えられていた。

その後、日本の文部省が仮名遣いと常用漢字の改訂を進めた事を受けて、1928年にワシントン州では、『日本語読本』の改訂版が編纂された。こうした、日本人移民による教科書作りから見えてくる事は、

  • 祖国である日本から「棄民」の烙印を押されまいと、常にその動向を見据え、敏感かつ積極的に対応しながら、アメリカの地で生き抜いていこうとした生き様。
  • アメリカの教育に適応しつつ、第二言語として日本語を学んでいた2世の負担を軽減し、学習意欲を継続させたい。また、彼等を「忠実なアメリカ市民」に育て上げ、アメリカ社会にもその事を認知させたい、という思い。

を体現したものであったと言える[22]。

しかし、戦後になり、日系コミュニティが、アメリカで生まれ育ち、白人社会への同化が進んだ2~3世の世代になると、日本は自分達の故郷ではなく、アイデンティティの拠り所として意識する事も無くなった。その為、日本語で子供達とコミュニケーションを取っていた1世とは異なり、英語本意で育った2世は、3世となる我が子達に、日本語教育を施す事は、殆ど無かった。こうした時代の流れから、1950年代に入ると、戦前の日本語学校の姿は、完全に失われる事となった[23]。

第一次産業への関わり

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農業分野への貢献

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シアトルで、地元の貧困層へ向け、無償で野菜を配布する日本人農民(1922年撮影)

アメリカに渡った日本人農民達は、土壌 / 肥料 / 開墾 / 灌漑 / 排水といった、栽培に関する高度な知識と技術を持ち込んだ事により、同国の西海岸地域における農業の発展に、多大な貢献をもたらした。

ヨーロッパ系の入植者と同様に、大部分が若い成人男性であった1世は、より良い生活を求めてアメリカに移住した。その大半は、西海岸に定住し、鉄道施設や製材所、缶詰工場、農場などで働くようになった[3][4]。そして、アメリカでの生活にも慣れ、ある程度の貯蓄が出来ると、その多くが州内の郊外都市に移り住み、白人地主から土地を借りる形で、農業を始めるようになった[16]。

しかし、期待とは裏腹に、1世達は政治や経済、社会のあらゆる面で、差別に晒される事となった。農業に従事する者達の場合は、外国人土地法によって、日本人は土地を所有できず、借用も3年以内に制限された。出生地主義に基づき、アメリカ市民権を持つ子供の名義を用い、土地を購入するといった、法の抜け道を利用する者もいた。だが、こうした方法も、アジア系移民の排斥を目的とした各法により、制限される事となった。

土地の所有が困難な日本人移民は、主に花 / 果物 / セロリ / ジャガイモ / タマネギ / カブ / レタス / キャベツといった、短期間で収穫できるものを栽培するようになった。例えばガーデナは、南カリフォルニアにおけるイチゴの一大産地として知られるようになった。1906年に、ロサンゼルス近郊の日系人農家は、新しい技術や労働力、設備などを共有する為の協会を創設し、1910年には「ロサンゼルス地域の中で、1エーカー当たり最高の収穫高」を誇るようになった。

ニンニク畑で除草作業を行う日本人農民(1942年3月30日、ドロシア・ラング撮影)

このように、それまで荒れ地だった土地を、豊かな農地へと変貌させる事に成功した要因としては、上述した栽培に関する高度な知識と技術だけではなく、自然との共生に加え、勤勉やチームワークを尊重する、日本人の気質も大きかったと言える。中には、資金を出し合って土地をリースする事で、小作農へと移行する者もいた。また、労働力を配分し、地主に支払う地代の集金や、労働者への賃金の分配を担当する組織もあった。こうした仕組みは、地主にとっても都合が良く、土地を所有できない日本人にも、農場経営者になる道が開かれる事となった。

1900年の時点では、カリフォルニア州で日本人が経営する農場は37軒(4,674エーカー)しかなかった。だが1910年には、同州で働く日系農家は、1,816軒(9万9,254エーカー)にまで増加した。1941年になると、日本人移民と日系人は「カリフォルニア州で栽培される商用作物の、30~35%を生産する」程の成功を収めるようになった[24]。

トゥーリーレイク強制収容所内の農場で、ホウレンソウの収穫に勤しむ日系人達(1942年9月8日撮影)

しかし、太平洋戦争の開戦に伴い、1942年に実施された、日系人に対する強制収容(後述参照)に伴い、多くの人々がそれまでの事業と農場を失う事となった。それでも、日系人にとっての農業は、強制収容所でも、強いアイデンティティとしての機能を発揮する事となった。収容所での農業プログラムは、収容者による消費を前提とした食料を、生産する為に設けられた。また、戦争遂行の為の「戦時作物」の栽培という、副次的な目的もあった。収容所は、総じて砂漠の中の荒涼とした場所に置かれていた。その為、農業を始めるにあたっては、過酷な気候条件をはじめとして、多くの課題に直面する事となった。しかし、1世達による長年の経験に基づいた熟練のノウハウは、そうした困難を物ともせず、収容所における農業への取り組みは、押し並べて成功を収める事となった[25][26]。

こうした背景もあって、当時の収容者達が育てた農地の一部は、戦後敢えて元の居住地に帰還せず、収容所の近郊に居住する事を選択した者達も含めた地元住民によって、現在でも活用され続けている。無論、西海岸に帰還した日系人農業従事者とその子孫達も、今尚各州の農業で、重要な役割を果たしている[27]。

カリフォルニア州における漁業コミュニティの形成と崩壊

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アメリカにおける日本人移民による漁業への従事は、1892年にカリフォルニア州のモントレー湾から始まった。

これ以降、同州で日本人労働者の斡旋や開墾の請負などに携わっていた、佐賀県出身の野田音三郎が、1895年に同湾が豊かなアワビの漁場である事に気付き、和歌山県出身の漁師を集め、小さな漁村を創った。そのうえで野田は、日本の農商務省に、技術者の派遣を要請する手紙を送ったところ、1897年12月に、千葉県から大日本水産伝習所(現:東京海洋大学)を卒業した技術者である小谷仲治郎と、3人の男性海人が渡米。仲治郎は、先に渡米していた兄・源之助と同地の地主であるA・M・アレンの3名で、1902年に湾の南部にあるポイントロボス(英語版)で、アワビ缶詰会社を創業。仲治郎自身は、1906年に帰国したものの、以降も南房総の漁業従事者を、アメリカへ送り続けた。

しかし、缶詰会社の事業は、日露戦争で日本が勝利した事で、アメリカ国内で反日感情が高まった事により、1915年にカリフォルニア州外へ、全てのアワビ製品を持ち出す事が禁じられる事となった。しかし、ドイツ系移民のポップ・アーネストが、アワビステーキを開発した事で、当時の牛肉不足も相俟って、アワビ料理が同州に定着。同社は、事業を継続する事が叶った。

結果として、モントレー湾の漁業は、長らく日本人移民が独占するようになった。1930年代半ばには、日本人所有の魚市場やアワビ加工施設が、モントレー埠頭における事業の8割を占めるまでに至った[28][29][30]。

ターミナル・アイランドにおける記念碑。画像では確認できないが、神額に「大漁」と刻まれている鳥居のレプリカと、巽幸雄[注釈 6]による「沖は黒潮 魚もおどる 父母の辛苦を 偲びつヽ 永遠に称えん いにしえの里」という和歌が記されているガラス製の歌碑も、並び建てられている[31][32]。

また、同じカリフォルニア州のロサンゼルス郡にある人工島であるターミナル・アイランドでも、和歌山県出身者を主とした日本人移民による漁業コミュニティが、1906年頃から形成されるようになった。戦前の最盛期には、約3,500人にも及ぶ漁師や缶詰工場の従業員と、その家族が居住する、アメリカ国内でも最大の日系漁村にまで発展した。

ターミナル・アイランドは、地理的に孤立している事もあって、各種商店や飲食店が軒を並べるようになり、島内で全ての事が足りていたという。また、住民の殆どが日本人移民の家族であった事から、同島で生まれた子供達は、英語と親達が話す紀州弁が合わさった「ターミナル弁」と呼ばれる、島独自のピジン言語で会話をしていた[33][34]。

しかし、太平洋戦争が開戦すると、前述した通り、日系漁村の住民達は、収容所へ送致される事となった。特にターミナル・アイランドでは、海軍の乾ドックに程近い場所だった事もあり、1942年2月9日には1世の男性全員が、FBIに逮捕された。その10日後に『大統領令9066号』が発令されると、残る全ての日系人も、48時間以内に退去させられる事となった。また、残された施設の全ては、当局によって撤去・破壊された。その為、戦後に収容所から解放された元漁師達は、庭師をはじめとする他業種への転職を余儀なくされ、カリフォルニア州における日系漁業コミュニティが、その後再建される事は無かった。

1994年になると、小谷兄弟が嘗てアワビ事業を始めたポイントロボスの居住跡地が、「コダニ・ビレッジ」と命名。アメリカで日本人の名前に由来する、唯一の州立公園となった[35]。ターミナル・アイランドでも、2人の日本人漁師を象った記念碑が、2002年に建立された[36]。

強制収容の実施

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日系人をサンフランシスコから追い出す旨の公報(1942年4月1日撮影)

太平洋戦争(大東亜戦争)の開戦に伴い、フランクリン・ルーズベルト大統領は、1942年2月19日に『大統領令9066号』へ署名。これにより、西海岸に居住する約12万人の日本人移民と日系人は、1人当たりに各々が両手で抱えられる荷物の所持だけが許可された以外は、それまでに築いた財産の大半の放棄を余儀なくされた。そのうえで、『戦時転住局 (WRA)』により設置された国内10ヶ所に設置された強制収容所へ、抑留される事となった。

日系人に対する抑留は、アメリカ市民権を持つ2~3世の子供までが対象となるなど、個々人の政治的な思想や活動ではなく、明らかに人種差別に基づくものだった。こうした連邦政府による日系人達に対する措置に、実施前後の時点で、明確に反対の声を挙げていたのは、公職の立場からは、FBI長官のJ・エドガー・フーヴァーやコロラド州知事のラルフ・L・カー、戦後駐日大使となるエドウィン・O・ライシャワー。私人の立場でも、全米黒人地位向上協会や全米ユダヤ女性評議会(英語版)、黒人ジャーナリストのジョージ・スカイラーなど、極少数だった。特にスカイラーは、『大統領令9066号』の発令に際して、黒人向け週刊紙『ピッツバーグ・クーリエ(英語版)』の紙面で、

政府が日系人に対して、このような真似が出来るのであれば、全てのアメリカ市民が、同じ目に遭わされる可能性がある事になる筈だ。彼等の闘いは、我々の闘いでもある。

と警告した[37]。

海軍の軍服姿でサンタアニタ集合センター(英語版)に出頭する、山田彦太郎[注釈 7]元上等兵曹(1942年4月5日撮影)

収容所の敷地は、鉄条網で包囲されているうえ、武装した兵士が、監視塔から常に目を光らせながら、抑留者達へ向けて銃口を向けているような環境だった。そうした中でも、抑留者達は気力を奮い起こし、殺風景な景観の改善と砂塵の防止を兼ねて、植栽に取り掛かっただけでなく、野菜の栽培も始めるなど、居住環境の整備に着手した。WRAは、収容所内に売店を設け、缶詰や新聞、反物などを売った。その収益は、抑留者達に還元され、様々な活動予算に充てられた。他にも、市民保全部隊が放出した衣類が配分され、ダルマストーブも各居所に設置された。

収容所内の設備が整ってくると、WRAは抑留者達に、日本で言うところの町内会を組織させた。そのうえで、責任者を選出し、タウンミーティングを適時開催するなどして、機能する社会を収容所内で作り上げた。抑留者達は、学童を除く全員が労働に従事し、月に12~19ドルの報酬を得た。やがて男性達は、その大半が外出許可証を手に、現行レートの賃金を得るべく、極度の労働力不足に悩む近場の農場に勤めるようになった。また、様々な教育コースを運用した他、1世の中には、暇に任せて絵画や俳句、詩吟、日本舞踊などの趣味サークルを立ち上げ、レクリエーションに興じる者も多かった。

アマチ強制収容所の盆踊り大会で、太鼓を叩く抑留者達(1943年8月14日撮影)

また、収容所では周囲が日系人ばかりだった事もあって、戦後には「初めて、周囲からの差別を気にせず生活できた。精神的にここまで楽な生活は、それまで経験した事が無かった」と証言する元抑留者も、少なくなかった。事実1世には、戦前は定住もままならず、毛布を担いで寝床を求め、ドミトリーや白人農家の納屋を日毎渡り歩く、赤貧を洗うような生活を送っていた者も、少なくなかった。一方で、家庭や持ち家、事業といった財産があった1世も、その多くが毎日寝る間も無く、働く事を余儀なくされていた。こうした背景から、1世達は押し並べて「雨露をしのぐ屋根があるバラックで生活できる日々は、渡米して初めての安息の日々だった」「3年間仕事もせずに、食べさせてもらって、あんなに楽な時期は無かった」と述懐したという。中でも、マンザナー強制収容所では、有志者の手によって、枯山水の日本庭園まで造り上げられた、との記録も残っている[39]。

そうした中で、1942年4月にカリフォルニア州陸運局(英語版)を解雇された遠藤美津江(英語版)が、JACLとジェームズ・パーセル弁護士の支援を受け、陸軍の違法な拘留により、就労する権利を奪われたとして、同年7月12日に北カリフォルニア地区連邦裁判所へ、人身保護令状を請求した。この請求は棄却されたものの、連邦最高裁に上告され、1944年10月に審議が開始された。同年12月18日に、連邦最高裁は「忠誠な市民の身体を拘束しておく事は、憲法違反である」として、遠藤の主張を全会一致で認めた(エンドウ事件(英語版))。

これにより、収容所に抑留されている日系人達は、1945年1月2日より、申請した行き先への片道切符と、1人当たり25ドルを渡されたうえで、順次解放され、全米各地で生活の再建を図る事となった[21][40][41]。

日系人部隊

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ハワイ全域から集まった2,686名の志願兵の為に、イオラニ宮殿前で行われた壮行会「アロハセレモニー」の様子(1943年3月28日撮影)

日本軍による真珠湾攻撃がなされた12月7日の午後に、ハワイ準州防衛隊(英語版)に所属する日系人兵士達が、海岸の警備や瓦礫の撤去、献血、負傷者の救援などの活動を開始した。しかし、非日系人の間における、日系人に対する不忠誠の嫌疑は、日増しに高まる事となった。1942年1月19日には、ハワイ大学で予備役将校訓練課程(ROTC)を受けていた317名の学生を含めた、約2,000人の日系兵が「4-C (徴兵不可の外国人)」という、軍から受け入れを拒否される最低の徴兵資格に落とされ、何の説明もないまま、除隊させられる事となった[42]。

それでも、除隊させられた2世達は、デロス・エモンズ(英語版)中将に、祖国への奉仕を熱望する旨の嘆願書を送付した。これを受けて、1942年2月25日に「大学勝利奉仕団 (VVV)」が編成される事となった。同年6月5日には、第一陣となる1,432名の日系兵が、ハワイを出発。6月12日にカリフォルニア州オークランドに到着した事に伴い、「第100歩兵大隊」が創設された。

ヴォージュ山脈で敢行された「失われた大隊」救出作戦にて、ドイツ陸軍と交戦する442連隊の様子を描いた絵画

1943年1月28日には、本土の収容所からも志願を募る方針を掲げた「第442連隊戦闘団」が、編成される事が発表された。当初、収容所の日系人から志願兵を募集する事は、ドワイト・D・アイゼンハワー連合国遠征軍最高司令官によって反対されたものの、最終的にはマーク・W・クラーク中将が司令官を務める第5軍が、その指揮を引き受ける事となった。ヨーロッパに到着してから2週間後の1944年6月26日に、100大隊を編入した442連隊は、「失われた大隊(英語版)」の救出作戦だけでなく、隷下の第522野戦砲兵大隊が、ダッハウ強制収容所の解放を成功させた事をはじめとして、ヨーロッパ西部戦線で獅子奮迅の活躍を見せた。

故郷のハワイで、442連隊旗と大統領部隊感状を掲げる播本トミー進1等軍曹

結果として442連隊は、兵士個人では、

を獲得。部隊としても、

を授与され[43]、225日という実質戦闘期間と規模に比して、アメリカ史上最も多くの勲章を授与された部隊の栄誉に輝いた。同時に、戦死者が860名、行方不明者が67名、重傷及び身体障害を負った者が約1,700人、累積戦死傷率314%を記録し、全米軍部隊中、最も損害を受けた部隊としても、記憶される事となった[44]。

宮本ミッチー光夫技術軍曹によりデザインされ、現在のアメリカでは、日系2世そのものの象徴とされている442連隊の臂章。実際には、戦闘服に着用される事は無く、終戦直前頃から制服にのみ着用されるようになった。

442連隊の奮戦ぶりは、日本側にも伝わっていた。井上ダン建元大尉の証言によると、終戦直後に発見された機密文書には、大戦中に駐独特命全権大使を務めていた大島浩帝国陸軍中将は、ドイツ政府に対して、1人でも日系2世の兵士を捕虜として拘束した場合、ベルリンまで連行して面会させるように要請していた、と記述されていたという。また、重光葵元外相も戦後、442連隊がアメリカ史上初めて、大統領から直接出迎えを受けた部隊になったとの一報を受け、
「ひがし西 太平洋に 繋がれて くさびとならむ 人の尊き」
「真心は 国の境の 隔てなく 人のかたちの けじめあるなし」

といった短歌を認めた。

一方で、幼少期に日本で教育を受けた「帰米2世」の多くは、主に「陸軍情報部 (MIS)」に所属し、太平洋戦線で戦略的かつ戦術的な情報の収集及び分析に従事した。陸軍航空軍(USAAF)へ出向した者も多く、爆撃作戦において、日本軍による通信の傍受と、その翻訳にあたった。著名な作戦事例としては、セブ島の抗日ゲリラが、福留繁連合艦隊参謀長から奪取した「新Z号作戦」の計画書を翻訳。帝国海軍が航空母艦の大半を失う事となった、マリアナ沖海戦やレイテ沖海戦での勝利に貢献した。他にも、海軍情報局(ONI)へ派遣されていたMISの無線通信士は、山本五十六連合艦隊司令長官が前線視察に赴く旨の暗号電文を傍受。山本が搭乗していた一式陸上攻撃機を、ブーゲンビル島上空で待ち構えていたUSAAFのP-38ライトニング16機により、撃墜する事に成功した。

ビルマ戦線のジャングルで、宮崎ハーバート吉喜(左)と吉村秋治(右)の両技術軍曹と共に、束の間の休息を取るフランク・メリル(英語版)准将(1944年5月1日撮影)

ドイツ降伏後には、442連隊から4名の将校と194名の下士官及び兵卒が、MISへの転属を申し出て、語学兵として太平洋戦線へ向かった。中でも、「陸軍情報部日本語学校 (MISLS)」で教育を受けた経験のある十数名は、戦略情報局(OSS)に抜擢。インド・ビルマ戦線で、秘密作戦や翻訳、捕虜への尋問、シギントなどに従事した。他にも、比嘉トーマス太郎上等兵をはじめとした、幼少期を沖縄県で過ごした為、英語 / 日本語 / 沖縄語を話す事の出来た、442連隊で兵卒だった者を中心とした170名の非MIS隊員も、通訳兵として沖縄戦に従軍した。終戦を迎えると、メンバーの多くが、「連合国軍最高司令官総司令部 (GHQ)」の一員として連合国軍占領下の日本へ渡り、復興支援にあたる事となった。

最終的にMISは、兵士個人では、

  • 殊勲十字章:1
  • 海軍十字章:1
  • 陸軍殊勲章:3
  • 銀星章:37
  • 勲功章:32
  • 軍人褒章:14
  • 青銅星章:388
  • 航空勲章:8
  • 名誉戦傷章:50
  • 戦闘歩兵章:121
  • 表彰状:204

を獲得。部局としても、

  • アメリカ合衆国大統領部隊感状:1枚
  • 同上(MISに所属する個人に対するもの):57枚

を授与される事となった。

前線には赴かず、国内でのみ任務を遂行した部隊としては、1944年4月26日にハワイ準州で編成された「第1399建設工兵大隊」が挙げられる。同部隊は、悪路や敵の障害物を模したものを含めた、ジャングルを想定した訓練施設をはじめとして、B-17専用の飛行場や大砲、弾薬貯蔵庫の建設にあたった。他にも、道路や橋の修理、塹壕の掘削、採石場での採掘といった、準州内のインフラに関する、あらゆる日常業務に従事した。中でも、当時ワヒアワで建設にあたった、総容量100万ガロンにも及ぶ貯水槽は、現在でもホノルル水道局によって使用されている[45]。

女性の場合は、1943年7月22日に軍への志願が認められ、終戦まで約300人の日系人女性が、婦人陸軍部隊(WAC)で軍務にあたる事となった。その殆どは、医療部隊や戦時情報局(OWI)で、タイピストや事務員、調査員としての任務にあたったが、約50人が通訳としてMISに配属され、戦後に日本へ渡った者もいた[46][47]。

例外的な事例

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宜野座 ハーバート盛人(ぎのざ ハーバートせいじん)は、1924年10月3日にハワイ準州カハルウ(英語版)で生まれる。ミドルスクール卒業後にエンジニアになる事を志し、家出同然でカリフォルニア州へ渡った。その後、太平洋戦争開戦に伴い、西海岸で日系人に対する強制収容の実施が決定した際は、これを回避すべく、中西部へ移り住んだ。1942年の時点では、日系人は徴兵の対象外であった。しかし、宜野座が当時居住していた地域で、インフルエンザが流行していた事により、選抜徴兵局は想定していた徴兵枠を満たす事が出来ず、宜野座までもが召集される運びとなった。入隊当初は、100大隊ないし442連隊への配属を希望していたものの、USAAFの第15空軍部隊(英語版)第483爆撃群第815爆撃飛行隊へ配属させられる事となった。B-17の尾部銃手として、中央ヨーロッパにおける軍事施設やインフラへの爆撃作戦に従事した。1945年2月20日に、ナチス・ドイツのウィーンにある石油精製工場への爆撃中に、搭乗機が対空砲火を受け制御不能となり、パラシュートで脱出。ハンガリーのバラトン湖近くに不時着したところ、4人の地元住民により拘束。捕虜としてバイエルン州モースブルク・アン・デア・イーザル(ドイツ語版)にある捕虜収容所へ送られる事となった。同年5月10日に、友軍によって解放された後は、イギリスのサウサンプトンを経て、8月に帰国。12月に技術軍曹の階級で名誉除隊となった。最終的には、2つの樫葉章付き航空勲章、名誉戦傷章、戦争捕虜章(英語版)など、累計で5個の勲章[注釈 8]を授与される事となった[48][49]。2011年9月2日に、カリフォルニア州リバモアで逝去。86歳没。

ジミー・ドーリットル中将(右端)が見守る中で、スピーチを行う黒木

黒木 勉(くろき べん)は、1917年5月16日にネブラスカ州グーテンバーグ(英語版)で生まれる。真珠湾攻撃の直後にUSAAFに志願し、第8空軍部隊第93爆撃群第409爆撃飛行隊へ配属。B-24の銃手として、ヨーロッパ西部戦線で30回のミッションをこなし、『TIME』誌などで大々的に取り上げられる事となった。ヨーロッパにおける最後のミッションで負った怪我の治療の為に帰国した際は、ラジオ番組に出演した他、スピーチ後に10分間のスタンディングオベーションが起きたコモンウェルス・クラブ・オブ・カリフォルニア(英語版)をはじめとする、数多くの公の場に顔を出す事となった。カリフォルニア州のビジネスマン達が、黒木の活躍を称賛した事は、西海岸における対日系人感情が軟化する事への、最初のきっかけとなった。その後は、太平洋戦線へ転属。両親の祖国である日本への本土空襲作戦を含めた、計28回のミッションをこなし、太平洋戦線におけるUSAAFの戦闘に参加した唯一の日系人となった。これらの功績により、3個の殊勲飛行十字章、5つの樫葉章付き航空勲章に加え、戦後の2005年8月には、ジョージ・W・ブッシュ大統領より、陸軍殊勲章を授与されている。2015年9月1日に、カリフォルニア州カマリロで逝去。98歳没。

緒方健二

緒方 健二(英語版)(おがた けんじ)は、1919年6月1日にインディアナ州ゲーリーで生まれる。幼少期をイリノイ州スターリング(英語版)で過ごし、そこではボーイスカウト活動に勤しむ。ハイスクール卒業後は、ナショナル・マニュファクチャリング・カンパニー(現:NCR)でメッキ工として働く傍ら、民間パイロット操縦プログラムを受けていた。真珠湾攻撃の翌日に、USAAFに志願すべくシカゴへ向う。一度は門前払いを受けるも、自身のアメリカへの忠誠心を頑なに訴え続け、ロックフォードにあるキャンプ・グラントに、衛生兵として配属される事となった。その後も、パイロット志願を諦めきれなかった緒方は、故郷であるスターリングの町長や警察署長、弁護士、判事に自身のUSAAF転属に関する推薦状を、陸軍へ送付する事を嘆願した。結果として、1943年12月31日に、イタリアにある第15空軍部隊第451爆撃群第726爆撃飛行隊へ、転属させられる事となった。B-24のボールターレット銃手として、計35回のミッションをこなし、2度の撃墜を生還。最終的に、3つの樫葉章付き航空勲章と名誉戦傷章を授与され、2等軍曹の階級で名誉除隊となった。戦後は、G.I.ビルによりイリノイ大学医学部へ進学。ハワイ準州で1年間、小児歯科医として勤務した後、スターリングで歯科医院を開業した。他にも、グアテマラへ2度に亘り、ボランティアに赴いた。1996年より引退生活に入る。2012年1月18日に、スターリングで逝去。92歳没[50]。

和田 ダグラス智雄(わだ ダグラスとしお)は、1910年9月9日にハワイ準州ホノルルで生まれる。ハイスクール中退後に日本へ渡り、5年間滞在した。帰国後の1933年に、ハワイ大学へ入学。1937年に卒業した後は、日布時事社に勤めたものの、日中戦争の勃発に伴い、日本語専門の特技兵として、海軍へ入隊。ONIへ配属された。大戦中は、アメリカ太平洋陸軍(USARPAC)司令部の参謀次長補佐官である岩井次郎[注釈 9]と共に、太平洋戦争における最初の日本人捕虜となった、酒巻和男帝国海軍少尉への尋問を担当するなど、対諜報活動を従事した。終戦後の東京裁判に際しては、連合国検察団の一員として、東條英機元首相をはじめとする、A級戦犯の起訴に貢献した。その後は、朝鮮戦争の勃発に伴い、アメリカ極東海軍司令部(COMNAVFE)における日本国政府や保安庁(現:防衛省)、警察庁、海上保安庁との情報連絡員に就任。足掛け38年間に亘ってONIに務め、中佐で定年退役を迎えた[52][53][54]。2007年4月2日に、ホノルルで逝去。96歳没。

4名以外にも、

  • USAAFには、上述した黒木や宜野座、緒方以外にも、第12空軍部隊(英語版)第47爆撃群第97爆撃飛行隊でA-20の銃手として、計50回のミッションをこなした松本ジョン英朗2等軍曹、気象航空団の田代登中尉と他5名
  • 海軍には、上述した和田以外にも、第一次世界大戦への従軍経験もあり、駆逐艦のベテラン機械工として、真珠湾攻撃の時点で勤続30年を越していたヘンリー・マツモト・ジュニア上等兵曹と他1名[注釈 10]
  • 海兵隊には平田・M・C・啓[注釈 11]とマックス・ツチダ、沿岸警備隊には井上ロイ将勝と金澤リチャード卓一の2名ずつ

の2世が、それぞれ所属していた事が確認されている[52][55]。

第二次世界大戦中、本来なら日系人に対しては、門戸が閉ざされていた筈の海軍やUSAAFなどで、上述したような事例が生じたのは、開戦直後の混乱期ゆえに、手続き上のミスの頻発したなど、様々な偶然が重なった事による側面が大きかったのではないか、と現在では推測されている[56]。

因みに、太平洋戦争中に日本軍の捕虜となった日系人兵士としては、テキサス陸軍州兵(英語版)所属のフランク・フジタ3等軍曹と、陸軍対敵諜報部隊所属の榊田リチャード元宗(英語版)少尉[注釈 12]の2名がいる。

軍人以外の事例として、OWIは帰米2世である馬場フランク正三の他、1世の石垣栄太郎/綾子夫妻や国吉康雄、八島太郎なども雇用した。八島の場合、日本への理解が浅かったOWI内部から、対日伝単の改善に尽力。彼が作成したコマ割り漫画『運賀内蔵』は、戦中最も多く撒かれた伝単とも言われ、日本兵の間でも絶大な人気を博した[57]。OSSに移った後は、ビルマ戦線における対日宣伝工作へ従事するも、間もなく終戦を迎えた。戦後、米国戦略爆撃調査団の一員として、渡米以来初めて帰国した際は、少佐相当の軍属として、米陸軍の将校制服を着用し、祖国の地を踏む事となった。他にも、1世の多毛津忠蔵(英語版)は、OSS公認の従軍画家として、太平洋戦線へ赴いた[58]。

また、大戦中に商船の船員として勤務していた日系人が、少なくとも19名死亡した事も確認されている[52]。

戦後における評価

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442連隊の連隊旗に、自らの手で大統領部隊感状を括り付けるトルーマン大統領(1946年7月15日撮影)

大戦中、約33,000人の日系人達が軍務に就いた。しかし、復員した彼等を故郷で待っていたのは、「ジャップを許すな」「ジャップお断り」といった看板が、此処彼処に置かれる街の風景や、元いた自宅が誹謗中傷の落書きだらけとなっていた様子、レストランや商店での入店拒否だった。復員兵達は、財産も奪われたまま、長らく職や新居を探す事も、困難な状況に置かれ続けた。こうした、アメリカ社会における日系人への偏見が解消されるのには、公民権運動が勃興する1960年代を待たなければならなかった。

旨森貞夫

100大隊の一員で、イタリア戦線で戦死した旨森貞夫[注釈 13]元上等兵は、アメリカ軍の勲章としては最高位となる名誉勲章を、1946年3月7日に授与された。旨森の名誉勲章は、第二次世界大戦下で活躍したアジア系兵士に授与された2つの内の1つ[注釈 14]で、日系人に授与されたものとしては、初めてだった。

1990年代に入ると、442連隊の元兵士に授与された勲章の再調査が行われた。結果として、西本ジョー真織元上等兵に授与された殊勲十字章が、1998年に名誉勲章へ格上げされた事をはじめとして、2000年には新たに19名に対して、同等の措置が取られた。最終的に、21個の名誉勲章が442連隊に授与される事となった。その内の1つは、井上ダン建連邦上院議員に対するものだった。

2010年10月5日にバラク・オバマ大統領は、442連隊 / 100大隊 / MISに、アメリカ合衆国で最高位の勲章である議会名誉黄金勲章を授与する法案に署名した。

現在のアメリカで、2世兵士の強さは、

といった要素が、全て見事に噛み合った事に起因するものだと評されている[6][60]。

日本へ渡った2世達

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2世による渡日の始まり

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1930年代に入ると、アメリカでの人種問題や日本の地政学上の勢力増大を契機として、1世が祖国との関係を見直し始め、2世に日本精神を植え付ける事を試みた。結果として、多くの2世が日本の価値体系や言語、国民性の本質を強く求めるようになり、日本へ留学する事を選んだ[61]。 太平洋戦争前の日本には、

  1. 1世である親が、アメリカでの生活を畳み、日本へ戻った者達。他にも、親が我が子を日本で初等及び中等教育を受けさせるべく、日本の親族へ預ける事例もあった。この種の2世は、「日本人」としての義務を果たした事を理由に、アメリカの市民権を喪失するまでは、二重国籍を維持し、日本社会に順応していた。1930年代には、こうした2世が、日本全国で1万~3万5,000人いると推定された。その殆どは、両親の出身地[注釈 15]である農村地帯に居住していた。
  2. 高等教育を受けていたり、ホワイトカラーの専門職に就いている者達。この種の2世は、大学を卒業しており、一般的な2世より年齢が高めであった。英語力だけでなく、特殊技能や高い知識を備えており、東京をはじめとする大都市で、財界やマスメディア、学術の分野で、重要な地位を占めた[注釈 16]。こうした状況は、アメリカ経済の主流から、アジア人が人種的に排除された為、高学歴の2世が大学教育や雇用を求めて、日本へ渡った事に起因していた。
  3. 日本の学校教育を受ける為に、1人で太平洋を渡った高校生~大学生の年齢の「留学生」。1936年には、日本の中・高等教育機関に2世学生が、約3,700人程在籍していたと推測されている[注釈 17]。そうした者だけでなく、1930年に本派本願寺の教育者である常光浩然が立ち上げた「日米ホーム」や、1935年に設立された恵泉女学園の留学生特別科といった、首都圏における外国出生者向けの特殊学校で、基礎的な日本語及び日本文化を学ぶ者も多かった。前者が、その多くが卒業後は朝鮮や台湾、南洋諸島、満洲国を含めた日本各地ないしその植民地で雇用を求めたのに対し、後者は日本に数年間滞在した後、アメリカへ戻る傾向にあった。この事は、1930年代初頭に、米ドルに対する日本円の価値が急落した事に起因している[注釈 18]。こうした背景をもとに、多くの1世にとって、我が子を日本へ留学させる事が、経済上現実的な選択となった。また、2世の雇用機会を改善する事や、世代間の文化や言葉のギャップを埋めるという目的も、そこには含まれていた。

という3種類の2世がいた[63]。

両親の祖国で暮らすよそ者達

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日本に渡った2世の大半は、往々にして頼れる人が誰もいない、慣れない環境に居住している事から、文化の違いや日本語の難しさ、ホームシックといった日常的な問題に悩まされた。また、その国際的な生い立ちの結果、自分ではコントロール出来ない強大な力の板挟みにも陥った。一方で、日本人は人種の不変性を信じ、在日日系2世を同胞と見なし、日本独自の厳格な文化規範や立ち居振る舞いの作法を押し付けた[64]。 1930年代の日本社会では、物事を「日本的」か「アメリカ的」かに分ける、二極的な思考パターンと価値観が蔓延していた[注釈 19]。例えば、恵泉女学園に当時在籍していた、とある在日日系2世の女性が「自分の祖先の国にいる時、その身体的特徴の為に、彼等は日本人と見なされ、異国的と思われるものは、何であっても批判的な目で見られる」と述べていたように、一般的な在日日系2世の振る舞いは、日本人には粗野かつ鼻持ちならない程に、無礼なように見えた。例えば、東京や横浜、大阪の歓楽街にあるカフェーやダンスホールへ頻繁に通い、アメリカ映画を鑑賞する、洋食を嗜むといった、昭和モダンを体現した在日日系2世の生活様式は、アメリカで生まれ育った彼等の文化的常識からすれば、ごく当たり前の事に過ぎなかった。しかし、日本社会で幅を利かせつつあった国粋主義者の目には、道徳的退廃の極みと映った[65]。

特に、シアトル生まれで日本育ちの2世である熊谷フランク武比古が、1933年10月に東京のダンスホールで自殺した事件は、日本だけでなく、アメリカの日系コミュニティでも、広い関心を集める事となった。事件の2年前程から、京浜地域の社交場では馴染みの顔だった熊谷は、ダンサーやホール支配人、自身の兄弟から金品を恐喝し続けていた。その事から、1933年5月に警視庁は熊谷の犯罪行為を摘発し、国外追放の手続きを進めていた。同年10月に、東京全域でダンスホールへのガサ入れが行われた際、刑事が熊谷を発見。身柄を確保しようとしたものの、熊谷はその場で服毒自殺を遂げた。日本の新聞は、熊谷の犯罪者としての資質は、アメリカで生まれたという生い立ちにあるかのように書き立てた。これ以降、在日日系2世は警察当局から十把一絡げに犯罪者として扱われ、日本国民の間でも、文化的なはみ出し者であるだけでなく、国家の安全保障上から見ても好ましくない「公共の敵」と見なされるようになった[66]。

1937年に日中戦争が勃発し、1939年には日米通商航海条約が失効した事で、日米関係は悪化の一途を辿った。日本社会全般が、あらゆる「アメリカ的」なものを排除する情勢になると、1940年には日本から2世の大量脱出が始まった。こうして、母国であるアメリカに戻った2世は、アメリカの一般社会や政府だけでなく、同胞である筈の日系人からも「帰米」と一括りにされ、不信と拒絶に遭遇する事となった。当時のアメリカ人にとって、帰米2世が日本で学校教育を受けた事は、天皇の為に命を擲ち、無差別殺人の敢行すら厭わない、狂気じみた日本兵の分身と見なすのには、十分な理由であった。とある情報専門家は、「このような者達は、合理的な疑いの余地なく無実が証明されるまでは、有罪と見なさなければならない」とまで述べた[注釈 20]。皮肉な事に、日米の架け橋としての役割を追求して、日本で教育を受けた2世は、祖先の国と生まれ育った国の両方から、阻害される憂き目に遭う事となってしまった。こうした帰米2世が、アメリカ社会で日の目を見るには、後にトルーマン大統領をして「人間秘密兵器」と言わしめる程、対日戦で八面六臂の活躍を見せた、語学要員部隊であるMISが、編成されるのを待たなければならなかった[67]。

戦時下の日本における2世

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アイバ・ダキノ(1944年12月に、ラジオ・トウキョウ前で撮影)

太平洋戦争中の日本では、約2万人の2世が、居住していたと推測されている。

彼等が、上述したような事例以外で、日本に渡った、留まり続けた背景としては、

  1. 親戚の訪問や、日本で教育を受ける事を目的に、短期で滞在する予定が、日米開戦により、帰国できなくなってしまった。
  2. トゥーリーレイク強制収容所で「忠誠登録」に“No-No”と回答し、第二次日米交換船で日本へ渡った。

が挙げられる[68]。

戦時下の在日2世は、軍に召集された者[注釈 21]を除いて、その殆どが、英語力を活かした職業に就いた。特に、連合国軍向けプロパガンダ放送『ゼロ・アワー』で、ニュース解説を担当し、「和製ホーホー卿」とも呼ばれた吉井チャールズ寿雄[注釈 22]の他、「東京ローズ」の通称でDJを担当したアイバ・ダキノ(戸栗郁子)を含めた2世女性達が、著名なケースだと言える。また、同番組を制作したラジオ・トウキョウ(現:NHKワールド・ラジオ日本)にも、多くの2世が集い、稲田ベティ文子やティーブ釜萢[注釈 23]、村山有、森山久[注釈 24]などが在籍していた。他にも、同盟通信社や外務省ラジオ室、国内外における日本軍の情報機関、赤十字社なども2世の多い職場だった。外務省ラジオ室には、同省が創立した2世向けの教育機関「敝之館」の国費留学生が動員された。大戦末期の広島市[注釈 25]では、第2総軍司令部情報部が2世女性を徴用し、アメリカからの短波放送を傍受する「特情班」を設けた[71]。その一方で、戦時下の日本における2世は、そのアメリカ人としての背景の為、「アメリカのスパイ」の可能性がある者と見なされた。警察や一般社会による、絶え間ない嫌がらせや厳しい監視の標的となるなど、社会的迫害に苛まれる事となってしまった[72]。

個々人の事例

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竹宮 帝次(たけみや ていじ)は、1923年にロサンゼルスで生まれ、1939年に家族で熊本市へ引き揚げた。九州学院中学を経て、1943年に青山学院高等商業学部へ進学したが、同年の学徒出陣に伴い、帝国海軍へ入隊し、旅順へ向かった。1945年3月には、呉鎮守府の第2特攻戦隊に転属。特殊潜航艇「蛟龍」の艦長に任ぜられ、特攻出撃命令を待っていた。だが、英語力を買われ、1945年7月末に軍令部へ転属。慶應義塾大学日吉校舎で、アメリカからの短波放送を傍受する任務に着き、少尉の階級で終戦を迎えた。同年8月27日には、1週間後に控えた、降伏文書調印式に関する事前折衝の通訳を受命。2名の軍令部参謀大佐と共に、駆逐艦「初桜」に乗船し、相模湾沖に停泊中の戦艦「ミズーリ」へ乗り付けた。その後は、COMNAVFEの初代司令官となったオスカー・バッジャール2世(英語版)少将から、専属通訳に指名される事となった。これを皮切りに、以降半世紀に亘って横須賀海軍施設に勤務し、港湾統制部最高責任者や民事部長などを歴任。1964年11月12日に、日本史上初の原子力潜水艦寄港となる、「シードラゴン」の佐世保港到着に際しては、ライシャワー駐日大使による記者会見で、通訳を担当した。また、日本におけるボーイスカウト活動推進に貢献した事もあり、日本国政府からは、1986年に藍綬褒章、1994年に勲五等双光旭日章、世界スカウト機構からは、1998年に団体史上268人目となるブロンズ・ウルフ章を、それぞれ授与されている[73]。定年延長を重ねた末、1997年に退官。2010年4月30日に、脳梗塞の合併症により逝去[74]。86歳没。米海軍は、竹宮による生前の功績を称え、池子米軍住宅[注釈 26]内にレストラン&バー「クラブ・タケミヤ」を設置・運営している[76]。

宇野 バディ一麿(うの バディかずまろ)は、1913年にオークランドで生まれ、ジャーナリストを志していた事もあり、ハイスクール時代から『羅府新報』でコラムを執筆していた。1937年には、フリーランスの従軍記者として、日中戦争下の中国大陸へ渡った。取材にあたっては、日本に住む伯父の人脈を利用して、最前線へ度々赴き、各日系紙の英文欄で、詳細な戦況を発信し続けた。また、多くの年長2世リーダー達と同様に、「2世は“日米の架け橋”としての役割を担うべき」という思想を提唱していた。その事から帰国後は、アメリカ社会へ向けては、日本の立場への理解を。若い2世に向けては、日本語と日本の歴史や文化を学ぶべく、日本へ留学する事を、それぞれ呼び掛ける旨の講演を続けた。しかし、アメリカ社会における日系人に対する風当たりが、日を追う毎に厳しいものとなる現状を鑑みて、1939年6月に渡日。この頃から忠誠の対象が、アメリカから日本へ変わるようになった。1940年1月に帝国陸軍へ召集されると、大本営陸軍報道部の記者に抜擢され、上海へ渡る事となった。1943年4月に東京へ呼び戻されると、捕虜収容所[注釈 27]の所長に就任。連合国軍兵士の捕虜を利用して、『ゼロ・アワー』を含めた数々の謀略宣伝工作に携わった。1944年10月には、フィリピンのマニラへ渡るが、同月のレイテ沖海戦で日本が大敗するなど、赴任した時点で既に、戦局は絶望的だった。1945年5月に、餓死寸前のところを抗日ゲリラに拘束され、他の日本人捕虜をと共に、ニュー・ビリビッド刑務所に収監された。そこでは、MISに志願した弟・ハワード安麿と、再会する事となった。復員後は、1941年に結婚した妻と子供達が待つ日本で暮らす事を選んだが、大戦末期に罹患したマラリアと結核が原因で、1954年12月10日に神戸市で逝去した[77]。41歳没。

和田 実(わだ みのる)は、幼少期にアメリカから日本へ渡り、東京帝国大学を経て久留米第二陸軍予備士官学校を卒業。予備役輜重少尉に任官した。太平洋戦争中に召集され、原田次郎帝国陸軍中将が率い、フィリピンのミンダナオ島に所在する、第100師団に配属された。しかし、同島での戦局が悪化するにつれ、和田は次第に、日本軍の姿勢へ疑問を持つようになった。同時に、戦争を早期に終結させ、日本の国土及び国民が被る無意味な損失を、可能な限り軽減させたい、とも考えるようになった。その事から、1945年8月初旬に米軍の捕虜となった際、海兵隊の情報将校による尋問の過程で、島の地理に明るい下級将校である和田は、協力者として迎え入れられる事となった。8月10日に、MISの今井チャールズ丈夫技術軍曹を、通訳として帯同させたうえで、海兵隊爆撃隊VMB-611のPBJ-1Dミッチェル哨戒爆撃機へ搭乗した和田は、同機の無線オペレーター席より、第100師団の本部を爆撃する為の重要な標的を特定。和田が指定したポイントには、総計22,000ポンドにも及ぶナパーム弾や破片爆弾、ロケット弾の投下と、重機関銃による射撃がなされた。これにより、第100師団の指揮系統は完全に破壊され、ミンダナオ島での戦闘は終結した。和田の事例は、太平洋戦争中に日本軍の士官が、米軍の航空機に搭乗し、その攻撃を指揮した唯一の出来事だった。因みに、戦後の和田は過去を消すべく、新たな戸籍等を与えられたと推測されており、その消息は不明となっている[注釈 28][78]。

日米関係の好転と移民受け入れの再開

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終戦を迎えると、ポツダム宣言を受諾して敗戦国となった日本は、連合国軍の占領下に置かれた。そのうえで、GHQの支援を受け、国家の再建に取り組む事となった。因みに、占領期の日本では、

を筆頭に、約8,000人の2世[注釈 29]が、GHQのスタッフとして勤務していたと、推測されている[47]。そして、その半分にあたる約4,000人は、G2翻訳通訳部に所属した。部員達は、憲法改正時の日米間折衝の他、東京裁判、BC級戦犯裁判、東條元首相の逮捕、真珠湾攻撃の総隊長だった淵田美津雄元海軍大佐への尋問、豊田副武元海軍大将の裁判など、占領史のあらゆる場面に立ち会う事となった[80]。

時を同じくして、「和」の精神や礼儀正しさ、勤勉さ、賢さといった日本的価値観が、アメリカでも広く知られるようになり、アメリカ人の対日観は、大きく変わる事となった。

二世週日本祭で、5名のクイーン候補者と写真に収まる、ロサンゼルス市長のフレッチャー・ボウロン(英語版)(1950年撮影)

こうした対日感情の好転に伴い、1952年6月27日には『移民国籍法』が成立。1世に帰化市民権が与えられると同時に、日本からの移民の受け入れが、28年振りに再開される事となった[81]。

1953年8月7日には、『難民救済法(英語版)』が成立。1956年に失効するまで、所謂「GIベビー」として生まれた約2,500人の戦災混血児(英語版)と、難民や季節労働者たる、和歌山や広島、鹿児島からの農業移民1,005名が、アメリカへ渡った[82]。

1965年に『移民及び国籍法(英語版)』が成立した事に伴い、『排日移民法』から引き継がれていた国別割当制度は、撤廃される事となった[83]。エマニュエル・セラー(英語版)下院司法委員長が提案し、エドワード・ケネディ連邦上院議員により強く支持された同法は、今日のアメリカにおける移民関係法の基盤となった。

しかし、新たに渡米した農業移民は、2世達が経営する農場における労働者として受け入れられた事から、賃金や労働環境は良くなかったうえに、日常生活での自由も制限されていた。1956年8月には、カリフォルニア州デラノにある「川崎農園」で、前年より待遇の改善を求めていた鹿児島出身の労働者20名が、JACLによる調停も実らず、交渉が破綻した結果、農園から逃走した。この事態を受けて、北加農園主協会は、日本からの農業労働者の受け入れを一時停止する事を表明。日本側も事態の改善に乗り出し、鹿児島選出の二階堂進[注釈 30]衆議院議員を筆頭とする自民党の議員団が、同農園を訪問。鹿児島出身の労働者達と懇談するなど、農園での生活状況について調査を実施。国務省の担当者とも、難民救済法や季節労働者派遣の法的条件についての意見交換を行った。デラノの日系コミュニティも、逃走した20名に向け、「日本人は、50年もの長きに亘り、証文が無くても勤勉に勤めてきた。これが大きな信用だった」との声明を出し、契約面での交渉より、現地で長く受け継がれてきた「日本人としての信用」を重んじるよう説得した。最終的に、農園主の川崎常楠[注釈 31]が待遇の改善を表面したものの、戻ったのは5名のみで、帰還を拒否した15名は、行方不明となった[87]。

その後も、契約期間を満了しない内に、他の農場や大都市へ移る日本人労働者は、後を絶たなかった[注釈 32]。また、1960年代になると、農業は日系人にとっての主要な産業ではなくなった。こうした、日系コミュニティにおける経済構造の変化に加え、時を同じくして日本で高度経済成長が始まり、アメリカ移住への関心の低下が顕著になった事も相俟って、日本からの新規移民受け入れの動きは、大きく後退する事となった[89]。

「戦争花嫁」の渡米[90]

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占領期の結婚と世論における評価

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太平洋戦争後、多くの日本人女性が連合国軍占領下の日本へ駐留していた進駐軍の兵士、特にアメリカ兵と基地や都市部を中心に、日常的な交流を持つようになった。こうした交流は、しばしば恋愛や結婚へ発展し、彼女達の多くが、アメリカを中心とした国外へ移住した。こうした女性は、後に「戦争花嫁」と呼ばれるようになった。

しかし、敗戦直後の日本社会では、戦争花嫁はしばしば蔑視の対象となった。嘗ての敵に対する強い反感が残る中、外国人兵士との結婚は、道徳的な批判が向けられる事となった。こうした背景は、戦後の日本社会における女性の貞操観念や性的規範、忠誠心、社会的責任等に関する議論とも深く結びついていた。日本が戦後の社会秩序を再構築しようとする中では、とりわけ女性の道徳性や性的行動が問題視された。戦争花嫁は、メディアにおいても主体的な個人ではなく、敗戦と占領によってもたらされた、社会不安の象徴として報じられた。

メディアによるネガティブイメージの形成

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戦争花嫁は、占領期の日本における新聞や雑誌では、「パンパン」と呼ばれるアメリカ兵への売春で生計を立てる街娼と同列に扱われる事が多かった。こうした報道姿勢は、両者の区別を曖昧にし、戦争花嫁に対する道徳的批判を強めた。また、外見や素行、生活態度が取り上げる事が多く、戦争花嫁を日本の伝統的な価値観を捨てた女性であるかのように報じた。

1952年に日本が主権を回復し、報道規制が解除された後は、戦争花嫁を「犠牲者」と見なす論調も増え始めた。メディアはアメリカ人男性を暴力的で無責任、日本人女性を無知で悲劇的な存在として報じ、結婚により人生が台無しになったという話が、新聞や映画、大衆文学で描かれた。

幸福になった事例も稀に報道されたが、例外的なものとして扱われた。全体的には、離婚や文化的摩擦、孤独、社会的排除に苛まれる側面が強調され続けた。結果として戦争花嫁には、その多様な背景や生活ぶりよりも、結婚生活の破綻や海外における生活苦が、ステレオタイプなイメージとして定着する事となった。

社会的関心の低下と再評価

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1960年代に入ると、一部ジャーナリストにより、戦争花嫁を「異文化社会の中での困難にもめげず、家族を支える強い女性」として描かれる傾向も見られ始めた。しかし、大半のメディアでは、離婚や犯罪、海外での孤立を伝える報道が繰り返され、大衆の認識を変えるには至らなかった。

1970年代に入ると、占領期の記憶が薄れるにつれて、戦争花嫁への社会的関心は低下するようになった。稀に彼女達に関する言及があっても、長期間日本から離れていた事から、既に日本社会の一員ではない存在として認識されるようになっていた。

1980年代後半からは、戦争花嫁自身とその支援者により、それまでの固定観念を改めようとする動きが始まった。彼女達は、自身を単なる悲劇の当事者ではなく、日米間の文化的な架け橋としての役割と、国境を越えて家族を築いた経験を強調した。これを受けて日本でも、彼女達に対する排他的な見方が、徐々に改まるようになった。

歴史的意義

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日本人戦争花嫁の歴史は、社会的偏見やメディアによる報道が、世論が特定のエスニシティに対するイメージを、如何に歪曲・ステレオタイプ化するかという事を示すものとなった。長年に亘り、彼女達は道徳的退廃と悲劇の象徴として描かれてきた。その背景には、戦後の日本社会におけるジェンダー規範やナショナル・アイデンティティ、社会的帰属意識に関する強い懸念があった。

リドレス運動の展開

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補償請求に際しての困難

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1948年7月2日に、日系人の強制収容に対する連邦政府による補償策としては、最初のものとなる『日系人退去補償請求法(英語版)』が、ハリー・S・トルーマン大統領によって署名された。しかし、国家補償の対象となる日系人達の損害及び喪失は、文書によって証明できる不動産や私有財産に限られ、精神的苦痛や教育及び職業によって見込まれた、逸失利益に対する補償は否定された。また、1件当たりの補償額の上限は2,500ドル、請求権の時効期間も1年半と定められた。

1948年法に基づいた請求は、時効を迎えるまでに22,945件提出され、その4割は限度額である2,500ドルを越えたものだった。しかし、立証責任が請求者に課せられた事から、手続きに時間がかかり、1950年末までに処理された請求は、僅か137件に留まった。それ以降も、1951年の修正法では、補償額を請求額の75%、または限度額より少ない額とする事とされた。更に、1956年の再修正法では、示談により総額10万ドル以内で、補償額を決定する事が基本となり、請求者が不服を申し立てた場合は、合衆国請求裁判所(英語版)[注釈 33]で裁決が行われる事とされた。

同法に基づいた補償処理は、1965年に終了したものの、支払われた賠償金の総額は約3,800万ドル。請求総額の約25%、日系人達が被った損害総額の10%未満に過ぎなかった[91]。

『市民の自由法』成立に至るまで

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そうした中で、1950年代半ば頃から黒人による公民権運動が展開され、結果として1964年に『公民権法』、翌1965年には『投票権法』が、相次いで制定される事となった。こうした動きに触発された日系人達によって、1948年法では考慮されなかった、無形の損害や日系人の自由及び尊厳の回復を求める「リドレス運動」が、1970年代から展開されるようになった[92]。

こうした動きを受け、JACLは1976年に、太平洋戦争中における日系人の強制収容に対する、謝罪と補償を要求する為の『全米補償請求委員会 (NCR)』を発足させ、同運動の嚆矢となった[93][94]。

1976年2月19日にジェラルド・R・フォード大統領は、『大統領令9066号』の正式な終了を確認する布告『アメリカの誓い』に署名。

「我々は、当時から理解するべきだった事を、今日知った。日系人の強制収容は、誤りだっただけではなく、彼らは当時も今も、忠実なアメリカ人である」

と述べた[95][96]。

1979年春にNCRは、強制収容所の実態を調査する為の連邦委員会の設置を提案した。これを受けた、民主党の井上ダン建連邦上院議員とジム・ライト(英語版)連邦下院議員によって、

  • 『大統領令9066号』に関する事実と、その影響に関する調査
  • 軍による指令の検証
  • 適切な救済策の提示

を目的とした、『戦時における民間人の転住・抑留に関する委員会(英語版) (CWRIC)』の設置を要求する法案が、連邦議会に提出された。同法案は1980年7月31日に、ジミー・カーター大統領によって署名された[97][98]。

その後、1981年7月から12月にかけて、ワシントンD.C.を皮切りに、ロサンゼルス~サンフランシスコ~シアトル~アンカレッジ~ウナラスカ~シカゴ~ワシントンD.C.(第2回)~ニューヨーク~ボストンの順で公聴会が開かれ、計20日間に亘って、750名の関係者が証言する事となった[99][100]。

『市民の自由法』に署名するレーガン大統領と、それを見守る(左から)松永スパーク正幸上院議員、峯田ノーマン良雄下院議員、佐伯パット・ハツエ下院議員、ピート・ウィルソン上院議員、ドン・ヤング下院議員、松井ボブ武男下院議員、ビル・ローリー(英語版)下院議員、梶原ハリー斉JACL会長

CWRICは、1982年12月に『拒否された個人の正義 (Personal Justice Denied)』と題した、467ページにも及ぶ報告書を、連邦議会に提出。同報告書の内容は、翌1983年2月24日に公表され、

日系人の強制収容は、軍事的な必要性ではなく、戦時中の集団ヒステリーや人種差別、政権の失策に基づいた、不当なものだった。

と結論付けられた[101]。また、同年6月22日には、存命している約6万人の元収容者に対し、1人当たり2万ドルの賠償金を支払う事を、連邦議会に対して勧告した[96][97][102][103]。

1988年8月10日に、ロナルド・レーガン大統領は『市民の自由法』に署名。

「日系アメリカ人の市民としての基本的自由と、合衆国憲法で保障された権利を侵害した事に対して、連邦議会は国を代表して謝罪する」

として、強制収容を経験した日系人に対して、公式に謝罪を表明。また、

  • 1人当たり2万ドルの賠償金が、存命者に限り支払われる。
  • 全米の学校で、日系人の強制収容に関する教育を行う事を目的とした、総額12億5,000万ドルの教育基金を設立する。

事も、同時に発表された[97][98][99][104]。

「日系アメリカ人」の多様化

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トーランスにおける「お盆フェスティバル」の一幕(2012年8月11日撮影)

世間一般における「日系アメリカ人」とは、戦前からの移民と、その子孫の事を指す。しかし、戦後になると、多くの日本人が定住者や半定住者、一時滞在者として、アメリカへ渡るようになった。

大まかな種類としては、

  1. アメリカで生まれ、幼少期を日本で過ごした「帰米2世」。彼等の多くは、戦後にアメリカへ帰国した。アメリカだけで過ごした2世が、小学校高学年頃から英語が第一言語となったのに対し、幼少期に日本へ渡った2世は、米英を敵視した日本の戦時体制もあって、自然の流れで日本語が第一言語となり、英語能力は衰退していった。その為「帰米2世」は、英語を第一言語とする一般的な2世ではなく、日本語を第一言語とする1世のコミュニティに溶け込む事となった。
  2. 上述した、アメリカ兵と結婚し渡米した「戦争花嫁」。その殆どは、日系人の密集する地域とは異なり、日系コミュニティとは隔離されたアメリカ各地で生活を送る事となった。
  3. 上述した通り、『移民国籍法』が成立すると、農業移民をはじめとする日本人が、少数ながらもアメリカへ渡るようになった。こうした戦後移民は、戦前と同じく、その多くが西海岸に定住する事となった。
  4. 1960年代には、日本の高度経済成長に伴い、日本企業の駐在員がアメリカの東西海岸都市に、次々と着任するようになった。70年代に入ると、駐在員とその家族も増え、特にニューヨークやロサンゼルス、サンフランシスコ、サンノゼなどでは、その人口が万単位にまで達した。
  5. 4.の現象に伴い、駐在員コミュニティによる様々なニーズを満たす必要性が生まれた。その事から、旅行代理店や書店、日本食材店、床屋(美容室)、土産物店、中古車業者、弁護士、医療従事者、不動産紹介業者といった業務に従事する人々が、日本から移住するようになった。特にトーランスは、多くの日本企業が事業所を置いた事に伴い、日本食レストランをはじめとする、日本に関連する各種店舗が、国内の他都市と比して、人口当たりにおいて、非常に多く運営されるようになった事から、『LAウィークリー(英語版)』紙では、「実質的な日本の48番目の県」となぞらえられる事となった。
  6. 平成に入ってから増えた、「語学研修」と称しつつ、勉学には力を入れず、日本からの仕送りで気ままな「遊学」生活を送る、20歳前後の若者。

が挙げられる。

こうして、戦後にアメリカへ移住した日本人達は、「新1世」と呼ばれ、日系コミュニティに新たな要素を加える事となった。戦後からの移住者に共通している点は、日本語が母語であり、英語は後天的に習得したという事である。その為、彼等と一般的な日系人達との間は、母語や価値観の違いもあって、必然的に距離が生じる事となった。それでも、程度や形の違いがあるとは言え、どちらも日本文化を受け継いでいる以上は、交流や相互支援を強化する必要に迫られる場合もある。従来の日系コミュニティと、戦後に形成された「新日系社会」の間には、一概には語れない複雑さが、横たわっていると言える。

そうした中で、アメリカに適応及び同化しつつ、日米を頻繁に行き来する事で、日本社会と強固な繋がりを保持した生活を営む戦後移民も、多く見られる。両国の社会的及び文化的習慣や価値観を有する、トランスナショナルな存在である彼等が、既存の日系人達と如何にして交流を深め、新たなネットワークを構築するのか、アメリカ社会や日米関係に、影響を及ぼす存在となるのかも、注目されている[105][106]。

年表(江戸時代)

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年表(明治時代)[110]

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19世紀(日布移民条約前)

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1889年にハワイ島ヒロで建てられたハワイ移民集会所。現在では、愛知県犬山市の博物館明治村に移築されている。

19世紀(日布移民条約後)

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着物姿の日系人少女(1900年撮影)
  • 1885年
  • 1886年
    • 1月28日 - 『日布渡航条約』が調印される。同年3月6日より発効。
    • 4月10日 - 中村隼雄が、日本人により日本国外で創刊された日本語新聞としては、最初のものとなる『東雲雑誌』の第7号[注釈 44]を、サンフランシスコで発行する。
    • 10月28日 - ニューヨークで、自由の女神像が除幕される。
  • 1887年
    • 白山谷喜太郎(英語版)[注釈 45]が、オハイオ州シンシナティにあるルックウッド製陶所(英語版)に、技師として招かれる。
    • 和歌山県出身の3名が、カリフォルニア州バカビルに定住。以降、和歌山市出身の相川直之助が、1890年にバカビルへ移住した事をきっかけに、多くの和歌山県民が、同市で果樹栽培に従事すべく、渡米するようになる。こうした状況を受けた相川は、1896年に日本人向けの食料品を扱う「東洋物産商会」を、サンフランシスコとバカビルに設立。この事がバカビルで、戦前のアメリカでは最大となる1世コミュニティが、形成されるきっかけとなる[115]。
  • 1888年
  • 1889年
    • 本派本願寺の曜日蒼龍が、ハワイへ渡航。同地における仏教の布教が始まる。
    • 10月28日 - 官約移民として初めてプランテーション労働者から商店主となり、ハワイ島における日系コミュニティの指導者でもあった後藤濶が、白人を頂点とする人種的ヒエラルキーを、恐怖によって維持する事を意図していた白人の有力者達の手により、ホノカアで殺害された挙げ句、遺体を電柱に吊し上げられる事件が起きる。
  • 1890年
    • カリフォルニア州への日本人による集団移民が、開始される。
    • 在日アメリカ公使館が、現在の赤坂へ移転。
    • アメリカにおける日本人移民が、2,000人を超えた事で、この年に実施された同国の国勢調査において、人種分類に初めて「日系」の項目が記載される[注釈 47]。
  • 1891年
    • ユニオン・パシフィック鉄道が、鉄道建設労働者に日本人の採用を開始。アイダホ州などへ、初の日本人移民が渡る。
    • 6月 - サンフランシスコで「大日本人会」が設立される。阿部屠龍や馬場小三郎をはじめとする、メキシコへの殖民希望者による「実業会」の後身組織である「遠征社」と、上述した日向と菅原らが、遠征社に対抗すべく組織した「日米用達会社」を統合したもの[116]。
  • 1892年
    • 福田清次郎が、ハワイで初となる日本語学校を、マウイ島で開校。
    • 6月3日 - 小野目文一郎(英語版)が、ハワイにおける最初の日本語新聞「日本週報」を創刊。
    • 7月29日 - 横浜正金銀行(現:三菱UFJ銀行)が、ホノルル支店を開店[117]。
    • 12月 - 古屋政次郎(英語版)が、シアトルで「古屋商店」を開業。日米両国の雑貨品や食料品の販売に加え、信託部を設置したうえで、日本人移民預金の取り扱いも開始する。後に、シアトルの本店以外にも、同市内の2店舗を含め、タコマ / ポートランド / バンクーバー / 横浜 / 神戸にも、支店を展開するようになる。
  • 1893年
    • シカゴ万国博覧会の万国宗教会議に、本派本願寺の八淵蟠竜や真言宗の土宜法龍、臨済宗の釈宗演、天台宗の蘆津実全らが参加。アメリカ本土における、仏教の布教が始まる。
    • 1月17日 - ハワイ王国が崩壊。日本国政府は邦人保護を目的に、軍艦「金剛」と「浪速」をホノルルへ派遣。約130人がハワイを離れ、グアテマラへ向かう事を選ぶ。
    • 5月14日 - サンフランシスコ教育委員会が、日本人子弟の公立学校への入学を拒否する決議を採択(サンフランシスコ日本人学童隔離事件)。当時の珍田捨巳総領事の尽力により、撤回される。
  • 1894年
    • 7月4日 - ハワイ共和国の樹立に伴い、官約移民制度が廃止。廃止までの9年半の間に、船が26回渡航。主に、広島や山口、福岡、熊本の農村部から約3万人が、ハワイへ渡った[注釈 48]。以降は、民間の仲介業者による移民となる。しかし結果として、プランテーションに雇われた者も、官約移民時代よりも劣悪な労働を強いられるようになり、日本人移民の中には、絶望して自暴自棄に陥る者が多発。加えて、民約へ移行してからの日本人移民は、無頼の徒を含む単身男性の割合が増加。それらが相俟って、日系コミュニティは酒 / 賭博 / 麻薬 / 売春が蔓延し、ホノルルの一部に売春宿 / アヘン密売所 / 木賃宿等が密集するスラム街を形成するなど、苦境に陥る事となる[119]。
    • 11月22日 - 『日米通商航海条約』が調印される。1899年7月17日より発効。
  • 1896年
  • 1897年
    • 2月27日 - 神州丸でホノルルに入港した日本人665名中587名が、無認可と50ドル不所持を理由に、税関より上陸を拒否される。再調査の結果、139名は上陸を許可されるも、残る448名は帰途につく事を余儀なくされた[注釈 50]。
    • 3月22日 - 山田季治社長 / 頭本元貞主筆による“The Japan Times”が、日本人による初の英字新聞として、東京で創刊。
    • 12月1日 - 在シカゴ日本国総領事館が開館。能勢辰五郎が領事として着任。
  • 1898年
    • ハワイがアメリカ合衆国の属領となる。以後、ハワイからアメリカ本土への移民制限が緩和される。
    • 本派本願寺が、サンフランシスコに本多恵隆と宮本恵順の両布教視察使を派遣。同市を本部とする「米国仏教団」が設立される。
  • 1899年
    • 3月8日 - 植田憲三らが北米で初の日系金融会社となる「日米金融社」を、サンフランシスコで設立[注釈 51]。
    • 10月20日 - この日、日本から到着した客船「亜米利加丸」に積み込まれた米から腺ペスト菌が持ち込まれる。加えて、ホノルルのチャイナタウン(英語版)における衛生環境の悪さも相俟って、一帯を中心にホノルルでペストが大流行する事態に発展。保健当局は、汚染された建物を焼き払う策に打って出るが、翌1900年1月20日に火災旋風が発生し、2月6日にようやく鎮火。結果として、チャイナタウンだけでなく、日系スラム街も全焼。一帯に住んでいた日本人移民は、ハワイ各地に離散する事となった[119]。
  • 1900年
    • この頃から西海岸で、日本人移民による土地の開墾と入植が、本格的に始まる。
    • 民間業者仲介によるハワイへの移民が、中止される。業者の仲介により、6年間で約3万5,000人が渡航。その後は自由移民となる。
    • アメリカ本土への日本人移民の数が、初めて年間1万人に達する。
    • 3月12日 - ハワイ準州で、37名の日系人商人によって、「ホノルル日本人商人同志会 (現:ホノルル日本人商工会議所(英語版))」が設立される。
    • 4月 - サンフランシスコで、アメリカ史上では事実上初となる、大規模な反日デモが行われる。これに伴い、ジェームズ・D・フェラン(英語版)市長が、日本人移民制限の決議を採択。
    • 12月22日 - 在シアトル日本国総領事館が、タコマから移転する形で開設。林曾登吉駐タコマ領事が留任。

20世紀

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ホノルルに到着した日本人移民(1910年撮影)

年表(大正時代)[124]

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在日アメリカ大使館前で、排日移民法の制定に抗議する群衆(1924年8月撮影)
  • 1912年
  • 1913年
    • 住田物産(現:エム・シー・フーズ)初代社長の住田多次郎が、ホノルルで「太平洋銀行」を開業[117]。
    • 市橋倭が、アジア出身の博士号取得者として、初めてアメリカの大学(スタンフォード大学)で教職に就く。
    • 5月2日 - カリフォルニア州で、アリゾナ州と同様の法律(カリフォルニア州外国人土地法)が成立。1世による、土地の購入及び一定年数以上の借地が禁じられる。5月10日に、珍田駐米大使が抗議声明を出すも、8月10日より施行される。同時期に、アリゾナ州では期限を問わず、1世による一切の借地が禁じられる。その後、ワシントン / オレゴン / アイダホ / モンタナ / テキサス / カンザス / ミネソタにも波及。
  • 1914年
    • アメリカとカナダの日本人会を統括する、「太平洋沿岸日本人会協議会」が設立される。
    • 志賀重昂が、1899年にテキサス州サンアントニオのアラモ伝道所を訪問した際、アラモの戦いと自身の故郷である三河国で起きた長篠の戦いに、類似性を見いだした事で、両国の勇士を称える詩文を刻んだ「アラモの碑」を、同所に建立[125]。
  • 1915年
  • 1916年
    • 10月2日 - 住友銀行が、ホノルルで現地法人「布哇住友銀行」を設立[126]。
  • 1917年
    • 4月6日 - アメリカが第一次世界大戦に参戦。終戦までに、約800人の1世が戦地へ出征。
    • 4月13日 - 東京で「日米協会」が設立される。
    • 8月16日 - ハワイ準州で、白人兵が西部戦線へ出征した防衛隊(英語版)で、596名の1世から成る日本人中隊が、留守部隊として組織される。英語を解さない隊員が大半だった為、命令などは日本語で行われた[120]。
  • 1918年
    • 8月 - 片山潜らが、ニューヨークで「在米日本人社会主義者団」を設立。翌年にアメリカ共産党が結成されると、片山は党幹部に選出。同志達と共に「日本人部」を構成。
    • 10月14日 - ハワイ準州防衛隊の日本人中隊で、2世の酒井金一大尉が、日系人として初めて、同中隊の指揮官に任命される[127]。
  • 1919年
    • ハワイ準州で、第一次世界大戦に従軍した、1世の退役軍人約400人に、アメリカ市民権が付与される。しかし、1922年に同措置は無効化された。
    • 10月30日 - 在米日本人会が、写真結婚の廃止を決議。翌1920年2月25日には、日本国政府が、「写真花嫁」に対するアメリカ行きの旅券発行を停止。
    • 11月 - 住友銀行が、シアトルで現地法人「沙港住友銀行」を設立。
  • 1920年
    • 1月19日~7月1日 - 第2次オアフ島大ストライキ(英語版)
    • 9月1日 - 明治屋と満平薬局が、日本で初めてコカ・コーラを販売。
    • 11月2日 - カリフォルニア州で、『対外国人土地法修正法』が成立。アメリカ市民権を持つ未成年の日系人による土地所有も禁止される。1世は、我が子である2世を、抜け道的に土地所有者にする手段も、絶たれる事となった。翌年の1月に、幣原喜重郎駐米大使が抗議声明を出すも、2月にはワシントン州でも、同様の法案が成立。2州に住む1世達は、一連の差別法の合憲性を巡って訴訟を起こすも、1923年11月に連邦最高裁は、土地法修正法は合憲であると判断。これにより、日本人移民の中には農業を諦め、都市部へ流出していく他、アメリカでの生活そのものに見切りをつけ、日本へ帰国する人々が、続出する事となった。
    • 11月24日 - ハワイ準州で、『外国語学校取締法』が成立。翌年の7月より施行される。
  • 1921年
    • この頃に、2世の誕生がピークを迎える。
    • 5月19日 - 連邦議会で、『移民割当法(英語版) (通称:ジョンソン法)』が制定される。
    • 6月 - オレゴン州ポートランドのポートランド・ローズ・フェスティバル(英語版)で、同市近郊で農業を営む日本人農民が、自分達が栽培した野菜や果物をあしらった山車を作成して参加。動力車により牽引されるものを対象とした部門で、1等賞を授与される。
    • 7月19日 - カリフォルニア州ターロックで、58名の日本人労働者が、白人の自警団により、同市から追放される事件が起こる。矢田七太郎駐サンフランシスコ総領事は、連邦政府に対して、日本人移民に対する保護を要請[128]。
    • 11月4日 - 原敬暗殺事件が起きる。
  • 1922年
    • 在ニュー・オルリンズ日本国総領事館が開設[129][注釈 57]。
    • 1月4日 - 日米国際電話が開通。
    • 7月23日 - 高峰譲吉が、在米日本人として初めて、位階(正四位)を追叙される。
    • 9月22日 - 『ケーブル法(英語版)』が制定され、帰化不能外国人である男性と結婚した女性は、アメリカ市民権を剥奪される事となる。1931年に同法は修正され、1936年に撤廃される。
    • 10月 - 共和党の浜田ジェームズ隆一が、日系人として初めて、ハワイ準州議会下院議員選挙に出馬するも、当選には至らなかった[130]。
    • 11月13日 - 神奈川県出身の小沢孝雄による、アメリカへの帰化を求める請求を、連邦最高裁が棄却(小沢対アメリカ合衆国事件(英語版))。これにより、日本人は「帰化不能外国人」と規定される[120]。
    • 11月22日 - 山下宅治による、ワシントン州の外国人土地法を不服とした請求を、連邦最高裁が棄却(山下対ヒンクル事件(英語版))。
  • 1923年
    • 4月15日 - サクラメント仏教会附属桜学園の寄宿舎が、メキシコ系アメリカ人のフォルトゥナート・バレンシア・パディージャにより放火され、11~17歳の日本人児童10名が犠牲となる。パディージャは、同年8月に地元警察へ出頭した後、9月1日に第一級殺人罪で起訴され、終身刑の判決を受ける。1970年に、カリフォルニア州のサン・クエンティン州立刑務所で獄死。
    • 7月 - 第一次世界大戦にアメリカ兵として出征した、熊本県出身の佐藤市蔵による、ハワイ準州で獲得した市民権が、本土へ渡った際に無効となった事を不服とした請求を、連邦最高裁が棄却。
    • 9月1日 - 関東大震災が発生。ロサンゼルスでは、「南加日本人救済本部」が発足し、義援金が約85万ドルに達した。全米各地における募金活動でも、約1,200万ドルが集まった。
  • 1924年
    • 埴原正直駐米大使が、4月にチャールズ・エヴァンズ・ヒューズ国務長官へ宛てた『排日移民法』に抗議する旨の書簡が、アメリカ国内で問題化。これをきっかけに、連邦議会が排日に傾き、5月26日に同法が成立。施行は7月1日からだったものの、事実上本土へは6月24日の「シベリア丸」によるサンフランシスコ入港、ハワイへは6月28日の「笠戸丸」によるホノルル入港を最後に、日本人の移民が全面的に禁止された[注釈 58]。以降の日本人によるアメリカへの入国は、再渡航者 / アメリカ出生者 / 旅行者 / 官吏及びその家族 / 通商航海条約の規定の下に商業を行う者 / 留学生などに限定される事となった。
    • 11月17日 - 日本で当時の国籍法が改正され、アメリカ生まれの2世による日本国籍の放棄及び離脱が、認められる事となった。
  • 1925年
    • 沿岸警備隊で、給仕として10年以上に亘って勤務していた、神奈川県出身の豊田ハリー秀光上等兵曹が、1921年5月にアメリカ市民権を許可されるも、1923年5月に無効化された事を、不服として提訴。マサチューセッツ州の州裁判所では勝訴するも、連邦最高裁で逆転敗訴。これがアメリカにおける、1世による最後の帰化訴訟となった[注釈 59][120]。
    • 岡山県出身の時岡政幸(英語版)が、ハーバード・ビジネス・スクールで日系人として初めて、MBAを取得[注釈 60]。
    • 3月 - 住友銀行が、サクラメントで現地法人「加州住友銀行」を設立。
    • 7月12日 - オレゴン州トレド(英語版)で、パシフィック・スプルース社に雇用された日本人労働者22名とその家族5名が、約200人の地元住民から襲撃を受け、ポートランドへの避難を余儀なくされる。翌日、主犯格と見なされた白人男性5名が逮捕される[131]。岡本久吉駐ポートランド領事代理は、ウォルター・M・ピアース(英語版)州知事に対し、事件の全容解明を要請。翌1926年7月12日に、被害者5名は、自身らに暴行を加え、財産を強奪した白人の男性8名と女性1名を、同州の州裁判所に提訴。同月23日に裁判所は、被告から原告に対し、総額13万ドルの賠償金の支払いを命じる判決を下す[132]。

年表(戦前昭和期)[133]

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20年代

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戦前のリトル・トーキョーのサンペドロ通りを写した一枚
  • 1927年
  • 1928年
    • 福永マイルズ寛(当時19歳)が、家庭の貧困と、両親がハワイ信託会社[注釈 62]の集金人から侮辱され続けていた事を苦に、同社への復讐を果たしたうえで、両親を故郷の山口県へ帰す為の費用を工面する事を計画。9月18日に、同社副社長の息子であるジョージ・ギル・ジェミソン(当時10歳)を誘拐。4,000ドルの身代金を奪って逃走したうえで、彼を殺害。数千人の群衆が、リンチを目的に福永が拘留されている警察署を取り囲むなど、ハワイにおける対日系人感情が、極めて悪化。同年10月に、ホノルル巡回裁判所は、福永に死刑判決を下す。弁護側は、心神耗弱を理由に再審を請求するも、翌1929年10月に連邦最高裁は、それを棄却。11月12日に、ローレンス・ジャッド(英語版)準州知事は、死刑執行状へ署名。11月19日に、刑が執行される。日系コミュニティでは、実直な文学青年・ホテルマンといった福永の人となりや、犯行に至った背景などから、再審運動が起きたにもかかわらず、判決からあまりにも早く死刑が執行された事に、「ハオレ(白人)は日本人を馬鹿にしている」といった憤りの声が、多く挙がった[140][141]。
    • 1世の森口富士松(英語版)が、アメリカでは初の日系小売チェーンとなる「宇和島屋」を、ワシントン州タコマで創業。
    • 古屋政次郎が、個人所有であった古屋商店の事業を、会社組織に変更。これに伴い、同商店を「太平洋商事会社」へ改称。
  • 1929年

30年代

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戦時中を挟み、1931年から1974年にかけて使用された、嘗ての在日アメリカ大使館本館
  • この頃から、カリフォルニアとハワイの日系人達が、ようやく経済的に安定した生活を送れるようになる。
  • 1930年
    • この頃から、アメリカで生まれた後に、渡日して教育を受け、帰国した「帰米2世」が増える。
    • 8月29日 - シアトルで、第1回JACL全国大会が開催される。
    • 11月4日 - ハワイ準州で、民主党の山城アンディ正義と共和党の岡多作が準州議会の下院議員[注釈 63]、共和党の三宅昇(英語版)が郡参事(カウアイ郡)に、日系人として初めて当選[145]。
  • 1931年
    • ホノルルで、KGU局と連携する「布哇ラジオ同好協会」と、同協会から離脱したメンバーで構成された、KGMB局と連携する「日本語放送会」といった、日系のラジオ放送協会が相次いで発足[146]。以降、ハワイ準州内で日本語のラジオ放送が盛んになる。
    • 4~5月 - 高松宮宣仁親王/喜久子妃が、昭和天皇の名代として、カナダとアメリカを訪問。5月27日には、サンフランシスコで、日本人移民達の前でスピーチを行う。帰路途中の6月2日には、ハワイへも寄港。
    • 10月 - 在アメリカ合衆国日本国大使館公邸が竣工。1978年まで、大使公邸として使用される。
    • 10月23日 - 太平洋商事会社と太平洋商業銀行が、世界恐慌の煽りを受け、経営破綻となる。
  • 1932年
  • 1933年
  • 1934年
    • 7月14~18日 - 第1回日米学生会議が、青山学院で開催される。
    • 7月23日 - 沖野トム留吉が、アジア系として初めて、ハワイ準州下級判事に就任[147]。
    • 8月13日 - リトル・トーキョーで、第1回「二世週日本祭」が開催される。
    • 9月9日 - アリゾナ州で、排日暴動が発生。12月28日までに、暴行などの被害を受けた日系人は、69名に及んだ。
    • 11月6日 - 帰米2世の労働運動家である米田カール剛三が、日系人として初めて、本土の州議会(カリフォルニア州下院)議員選挙に、共産党の公認候補として出馬。当選には至らなかったものの、1,000票以上を獲得したという結果は、日系コミュニティに小さいながらも、確実に希望の光を灯すものだった[148]。
  • 1935年
  • 1936年
  • 1937年
  • 1938年
    • 1月 - コロラド州ピアース(英語版)出身の豊錦喜一郎が、日系人として初めて、大相撲で初土俵を踏む。
    • 3月25日 - 日本・ハワイ間通話開通式が執り行われる。
    • 7月 - 廣瀬隆(英語版)と仲間清(英語版)が、全米水泳選手権大会で日系人として初めて、アメリカ代表の一員として出場[151]。
    • 7月15日 - 日本国政府が、1940年に予定していた札幌と東京でのオリンピックと、万国博覧会の開催中止を、正式に決定。
    • 7月26日 - 連邦政府が、日米通商航海条約の破棄を通告。翌年1月26日に失効。
    • 11月 - 山口ラルフ忠が、アジア系として初めて、ハワイ準州の副司法長官に任命される[152]。
  • 1939年
    • この頃から、3世の誕生が始まる。
    • 4月14日~6月18日 - 宝塚歌劇団が、「訪米芸術使節団」として、全米9都市で公演。
    • 4月30日~10月31日 - ニューヨーク万国博覧会の第1期が開催される。
    • 7月 - 勝谷富士子が、全米女子水泳選手権大会で日系人女性として初めて、アメリカ代表の一員として出場[153]。翌年6月には、ハワイAAU水泳選手権大会において、女子200m平泳ぎで、当時のアメリカ新記録を樹立。これに伴い、勝谷は日系人として初めて、オリンピックアメリカ代表に選出される。しかし、上述した通り、東京オリンピックは開催されず、その夢は打ち砕かれる事となった[154]。
    • 8月17日 - 国際情勢の悪化を受け、日本郵船による定期航路が休止となる。
    • 8月31日 - 前年より外務省の音楽親善使節として渡米していた古賀政男が作曲した『緑の月』『ああそれなのに』『男の純情』『酒は涙か溜息か』『丘を越えて』を、オーケストラアレンジしたものが、NBCを通じて全米に放送される。
    • 12月1日 - 外務省の「日米の親善を増進するには、アメリカで教育を受けた2世を、日本で日本精神を体得させ、良く日本を理解させる為の、適当な機関を設けるべき」という意向に基づき、河相達夫情報部長を中心として、同盟通信社と南満洲鉄道の支援のもと、東京市中野区に2年制の教育機関「敝之館」が開校。在米の領事館により選抜された、16名の第1期生が入校。

40年代

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(左から)来栖三郎と野村吉三郎の両駐米大使
  • 1940年
    • ニューヨークで、1世のメソジスト教会牧師である赤松アルフレッド三郎を代表とした「東部日本人共護委員会」が発足する。
    • 南加中央日本人会が、「米国最大の日本人密集地に相応しい名称とするべき」という名分のもと、「米国中央日本人会 (CJAOA)」と改称される。
    • 1月 - ハワイ準州で、日本語を含めた外国語によるニュース放送が禁止される。
    • 5月11日~10月27日 - ニューヨーク万国博覧会の第2期が開催される。
    • 6月28日 - ルーズベルト大統領が、『スミス法(英語版) (正式名称:外国人登録法)』に署名。1世を含めた、アメリカ市民権を持たない全ての外国人に、指紋登録が義務付けられる。
    • 10月16日 - 連邦政府が、日本への屑鉄輸出を禁止。
    • 11月4日 - 東京で、紀元二千六百年記念行事の一環としての「海外同胞大会」が開催される。アメリカを含めた海外諸国から、約1,500人の1世が参加。これに伴い、有田八郎議長 / 南郷三郎副議長 / 丸山鶴吉事務総長の三役の下で「海外同胞中央会」が設立される。
    • 11月10~11日 - 宮城前広場で、紀元二千六百年式典・奉祝会が執り行われる。
  • 1941年
    • 6月6日 - FBIが、在ロサンゼルス総領事館駐在の立花止帝国海軍中佐を、スパイ容疑で逮捕。連邦政府は、立花と在シアトル総領事館駐在の岡田貞外茂帝国海軍少佐の2名に、ペルソナ・ノン・グラータを通告し、国外退去処分を下した(立花事件)。日本による第五列活動への恐れが、日系コミュニティを含めたアメリカ社会へ広がる。これに伴い、『羅府新報』英文欄編集長の田中董梧(英語版)は、6月15日付の紙面で「今や日本は敵である」と明言し、2世は日本に銃を向ける覚悟がある事を、アメリカ社会へ向けて発信。
    • 7月25日 - 連邦政府が、在米の日本資産を凍結。
    • 8月1日 - 連邦政府が、日本への石油輸出を禁止。
    • 8月18日 - 民主党のジョン・ディンゲル・シニア(英語版)連邦下院議員(ミシガン州選出)が、ルーズベルト大統領宛に、日本が 「おかしな事」 を仕出かさない為の保証として、1万人に及ぶハワイ在住の日系人を、人質として抑留するよう示唆する旨の書簡を送る。
    • 9月17日 - 前年6月から、ハワイ準州内で情報網の構築に取りかかっていた、ロバート・シャイバーズFBIハワイ支局長が、アメリカに忠誠的な日系人のリストを、白人社会から特に信頼が厚いHJCAの幹部である、若山ジャック喜代松会長や坂巻駿三(英語版)ハワイ大学助教授などから入手。11月末までに、情報源1,139名及び連絡係50名の他、1世ではホノルル日本人商工会議所会頭などを歴任した住田代蔵(英語版)[注釈 64]、2世では日系人として初めてハーバード・ロー・スクールを卒業した弁護士の丸本正二(英語版)[注釈 65]をはじめとする、73名の日系人を含めた秘密情報提供者172名を、協力者として確保した。このようにFBIは、日系コミュニティ内における不穏な言動を把握する準備を、抜かりなく行っていた。当然ながら、日系人自身による情報提供は、日系コミュニティ内に、深刻な相互不信と亀裂を招く事となった[155]。
    • 10月 - 田中董梧が、1世の仲村権五郎CJAOA会長と共に、ワシントンD.C.を訪問。多くの要人達に、日系人の窮状を訴えた他、日米開戦に至った場合の、日系人に対する措置などを質問。結果として、ルーズベルト大統領からは、温かい同情の言葉が寄せられ、フランシス・ビドル(英語版)司法長官からは、文書による「最悪の事態が起きても、善良な市民である日系人は、合衆国憲法によって身の安全が保障されている」といった約束を、取り付けるまでに至った。
    • 10月20日 - 日本郵船が、何れも戦前では最後となる、バンクーバー及びシアトル向けの氷川丸を横浜から、ホノルル向けの大洋丸を神戸から、それぞれ出航させる。
    • 11月1日
    • 11月5日 - 日本の南部仏印進駐による日米関係の悪化に伴い、外務省が来栖三郎を、前年11月に着任した野村吉三郎に続く、異例の「2人目の駐米大使」として派遣する事を決定。
    • 11月12日 - リトル・トーキョーにあるCJAOA本部が、FBIの家宅捜査を受け、記録や名簿が押収された[6]。

年表(第二次世界大戦期)[156]

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1941年

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リトル・トーキョーで、真珠湾攻撃を伝える羅府新報の号外を受け取る日系人(1941年12月8日撮影)
  • 12月7日
  • 12月9日
    • ハワイ準州では、この日までに地元警察やFBI、軍警察によって、日本国籍者345名及び日系市民22名が、拘束される事となった[注釈 67]。
    • 同日、同準州内で逮捕された日系人のうち、ハワイ島コナで商店兼理容室を営んでいた、1世の大島兼三郎に対する逮捕理由は、「日本総領事館のボランティアスタッフを務めていた」というものだった[注釈 68]。
翌1942年3月20日に、サンフランシスコへ移送された大島は、オクラホマ州フォート・シル(英語版)の陸軍基地に抑留された。抑留中の大島は、「日本へ強制送還されるのでは」といった懸念に加え、ハワイに残してきた妻と11人の子供達の生活や、逮捕された時点で残っていた、事業に関する借金の事などを案じているうちに、次第に精神錯乱に陥るようになる。
同年5月12日の早朝に、大島は他の抑留者達と花札をしている最中に、突然鉄条網へ向かって歩き始め、脱走を試みた。警備員は、大島に止まるよう呼び掛けるも、彼が応じる様子はなく、背後から発砲。銃弾は頭部に命中し、大島は即死。遺体は現在、ハワイ島の大福寺に埋葬されている[157]。
  • 12月11日 - 「東部日本人共護委員会」が、「日米民主委員会 (JACD)」へ改称。小室トーマス勉が委員長に就任。日本の軍国主義体制を真っ向から非難すると同時に、アメリカへの忠誠を誓う。
  • 12月13日 - 真珠湾攻撃の当日に、零戦でハワイ諸島のニイハウ島へ不時着した、空母「飛龍」所属の西開地重徳帝国海軍1等飛行兵曹が、島民に殺害される。西開地の通訳兼協力者だった2世の原田義雄は、散弾銃で自殺。翌日には、原田の妻・アイリーン梅乃と、1世の新谷石松が逮捕される(ニイハウ島事件)。
  • 12月22日 - ハワイ軍政府が、新聞に戦時公式政策を発表。「日本と開戦したとはいえ、日系人を解雇する余裕は無い」として、民間企業における彼等の再雇用を促す。同時に、「日系人の逮捕と捜査は継続するものの、集団強制立ち退きを実施する意図は無い」とも明言。
  • 12月23日 - 陸軍を名誉除隊した田阪ラリー貫一が、ロサンゼルスでフィリピン系住民に刺殺される。同様の日系人を狙った、殺害及び傷害事件は、同月の24日 / 25日 / 29日 / 30日 / 翌年1月1日と続く。
  • 12月29日 - カリフォルニア / オレゴン / ワシントン / モンタナ / アイダホ / ユタ / ネバダにおける全ての「敵性市民」に、短波ラジオやカメラ、双眼鏡、武器といった禁制品の引き渡しが命じられる[158]。
増田辰郎が、サンフランシスコで経営する湾東商会の店頭に掲げた「私はアメリカ人だ」と書かれた看板(1942年3月13日撮影)
  • 1月6日 - 『ハワイ報知』と『日布時事[注釈 69]』の2紙が、軍政府による検閲を受けるという条件付きで、日本語による新聞発行が認められる。
  • 1月19日 - ハワイ準州における約2,000人の日系人兵士が、「4-C (徴兵不可の外国人)」に分類され、事前通告もないまま除隊させられる[6]。
  • 1月26日 - 海軍情報局(ONI)が、ケネス・リングル少佐[注釈 70]による報告書を発表。
  • 2世のうち3/4は、積極的にアメリカへ忠誠を示し、1世の大多数は高齢かつ無気力で、消極的忠誠を示す。
  • 西海岸とハワイで綿密な調査をしたが、2世や居住歴の長い日本人から、妨害行為や破壊行為、スパイ行為、第五列的行為の証拠は、一切出てこなかった。
  • 潜在的にアメリカへ不忠誠な日本人移民や日系人は、3,500人未満である。そして、その殆どが既に拘引されている、若しくはONIやFBIが、事前に把握している者達である。よって、日系人が軍事的安全に及ぼす脅威は、極めて小さい。

と結論付けた[注釈 71]。

集団強制立ち退きの必要性は、事実に基づいたデータではなく、主として大衆の圧力と政治的圧力に基づいている。

と結論付けた。

  • 2月8日 - ハワイ準州で、丸本正二を委員長として、日系人のアメリカ化推進により、同コミュニティにおける不安や絶望、混乱を払拭し、軍政当局との連携強化を目的とした「非常時奉仕委員会 (ESC)」が発足する[155]。
  • 2月19日
    • ルーズベルト大統領が『大統領令9066号』に署名。「保護」の名目で、西海岸に住む日系人全員に加え、ハワイの日系コミュニティにおける指導者と見なされた人々の計約12万人が、全米10ヶ所に建設された収容所に抑留される(日系人の強制収容)。
    • ハワイで逮捕され、抑留処分となった日系やドイツ系、イタリア系をはじめとする「敵性外国人」に対する、最初の本土移送が実施される。 日本人抑留者の移送は、1943年12月2日までにかけて、10回に分けて行われた。
  • 2月25日 - ハワイ準州で、第34戦闘工兵連隊のもとに「大学勝利奉仕団 (VVV)」が編成される。1月30日に、後にESCの副委員長となる吉田繁雄が、除隊させられた元兵士の日系人を代表して、デロス・エモンズ中将に請願書を提出した事に伴うもの。
  • 3月18日 - ルーズベルト大統領が『大統領令9102号(英語版)』に署名。収容所に抑留された日系人の管理を担当する「戦時転住局 (WRA)」が設置される。
  • 4月 - 第一次世界大戦に従軍し、米国在郷軍人会(英語版)の役員も勤めていたハワイ出身の若山アーネスト金蔵と妻・ときが、アメリカ自由人権協会に対し、強制収容への異議と人身保護礼状の請求を申し立てる。同年10月より、判事による請願内容の聞き取りが始まる。夫妻の弁護団の一員であるヒュー・マクベス・シニア(英語版)弁護士は、補足説明と口頭弁論の際に、「人種に基づく強制収容は、憲法違反であり、差別である」と非難した[162]。
  • 4月2日 - カリフォルニア州人事委員会が、日系人州職員の全員解雇を表明。『エンドウ事件』の原因となる。
  • 5月 - MISLSにおける最初の卒業生45名が、アリューシャン諸島ならびに南太平洋に派遣される。
  • 5月13日 - WRAが、集合センター及び強制収容所で、季節農業労働者を募集する事を許可。5月20日に、第1陣がオレゴン州のテンサイ畑へ向かう[158]。
  • 5月29日 - カリフォルニア大学 / ワシントン大学 / アメリカ・フレンズ奉仕団が、「全米日系学生転住協議会」を設立。WRAと連携して、2世の学生達を受け入れる準備のある大学と交渉。在学中に立ち退きを余儀なくされた学生達には、成績や資質、経済的事情などの資格審査を実施。これら様々な要素を考慮したうえで、対象者の内15%を、同年秋に初めて出所させた。
  • 6月12日 - ハワイ出身の日系人兵士によって、「第100歩兵大隊」が編成される。
  • 6月17日 - 日本側の第1次日米交換船・浅間丸が、横浜から出航。
  • 6月18日 - アメリカ側の第1次日米交換船・グリップスホルム号(スウェーデン船籍)が、ニューヨークから出航。
  • 6月20日 - WRAが、日系人の出所方針を決定。
  • 7月12日 - 元カリフォルニア州陸運局職員の遠藤美津江が、「州職員を解雇された事は、アメリカ市民としての公民権侵害にあたる」と主張。遠藤の弁護人であるジェームズ・パーセルは、彼女の身柄を管轄するWRAのミルトン・S・アイゼンハワー(英語版)局長を相手取って、北カリフォルニア地区連邦裁判所に、人身保護令状を請求を申し立てる。
  • 7月21日 - ESCが、HJCAを吸収合併する事を表明。
  • 7月27日 - ニューメキシコ州にある司法省が管轄するローズバーグ抑留所で、何れも1世の小畠都四郎と磯村広太が、クラレンス・バールソン上等兵によって射殺される。後の軍法会議で、バールソンは無罪となる(ローズバーグの殺人)。
  • 9月14日 - 西部防衛司令部(英語版)(WDC)長官のジョン・L・デウィット(英語版)陸軍中将が、西海岸における日系人の立ち退き完了を発表[6]。
  • 10月 - 「海外同胞中央会」を母体とした、「敵国在留同胞対策委員会」が発足。太平洋戦争開戦に伴い、アメリカを含めた交戦国に抑留された、日本人移民や日系人の救恤事業に取り組む。
  • 11月14日 - ポストン強制収容所で、秘密情報提供者だった西村ケイ一雄が襲撃を受け、2名が逮捕される。被収容者によるハンストの原因となる[158]。
  • 12月5~6日 - マンザナー強制収容所で、WRAとJACLによる収容所の管理体制に反発した、帰米2世の上野ハリー義雄(英語版)を中心とする抑留者達が、JACL幹部の田山フレッド勝を襲撃する暴動を起こす[注釈 72]。
上野は逮捕されたが、退役軍人の抑留者である栗原ジョー吉輔に扇動された約2~4,000人の群衆が、上野の釈放を求めるべく軍警察と衝突。群衆は暴徒化し、軍警察は武力による制圧が必要と判断。制圧の際に、伊藤ジミー博と金川ジム勝司の2名が死亡。最終的に、上野と栗原を含めた26名(うち9名が1世、15名が帰米2世)が逮捕された。これを受けてWRAは、「トラブルメーカー」と見なした抑留者を隔離する為の施設を、同月10日にユタ州モアブに設置した[注釈 73][163][164]。
因みに、同収容所において、田山を含めたWRA支持派と見なされた人物とその家族の計66名は、同年12月10日よりデスヴァレー国立公園の近郊に急遽設けられた、カウ・クリークキャンプへ移送。翌1943年2月16日までに、全員がアメリカ・フレンズ奉仕団の支援を受け、シカゴやコロラド州などに再定住。6名はJLS教員、1名[注釈 74]はOSS職員となった[165]。
トゥーリーレイク強制収容所での日系人女性達(1943年8月撮影)
  • 1月4日 - WRAが、シカゴとソルトレイクシティに、収容所からの再定住支援を目的としたエリア・オフィスを設置。
  • 1月5日 - 陸軍が、ミシガン大学に白人生徒のみを対象とした「陸軍日本語学校 (AJLS)」を設置。
  • 1月31日 - VVVの兵士達の希望に伴い、同部隊は解散となり、100大隊への入隊が可能となる。
  • 2月1日 - 「第442連隊戦闘団」が編成される。
  • 2月4日 - 若山夫妻に人身保護礼状が付与され、本格的な審理の開始も予定された。しかし、マンザナー収容所における村八分に憔悴しきっていた夫妻は、日本への帰国を請願した[注釈 75]。
  • 2月10日 - 収容所の日系人に、「出所申請書 (Application for Leave Clearance)」が配布される。特に、
質問27:貴方は命令を受けたら、如何なる地域であれ、合衆国軍隊の戦闘任務に服しますか?
質問28:貴方は合衆国に忠誠を誓い、国内外における如何なる攻撃に対しても、合衆国を忠実に守り、且つ日本国天皇、外国政府・団体への忠節・従順を、誓って否定しますか?
と記載された、所謂「忠誠登録」が、論争の的となる。
  • 3月 - ラジオ・トウキョウ(現:NHKワールド・ラジオ日本)が、アイバ・ダキノをはじめとする、日本に居住する2世女性達で構成された「東京ローズ」を、DJに起用した連合国軍向けプロパガンダ放送『ゼロ・アワー』の放送を開始(~1945年8月14日)。
  • 4月11日 - トパーズ強制収容所で、愛犬の散歩をしていた1世の若狭ジェームズ初明が、有刺鉄線のフェンス付近で、監視塔の歩哨であるジェラルド・フィルポット上等兵にライフルで射殺される。19日に執り行われた収容所葬には、収容所の外部からは国務省の代理人やスペイン公使館付武官、中華民国公使館職員の計3名が参列。軍法会議でフィルポットは、過失致死罪で起訴されるも、無罪となった[166][注釈 76]。
  • 4月18日 - 山本五十六帝国海軍大将が、前線視察中にブーゲンビル島上空で、搭乗機を米軍機に撃墜され死亡(海軍甲事件)。第二次世界大戦時の日本軍で、敵襲により戦死した最高位の軍人となる。死後、日本国政府より元帥に叙せられ、大勲位菊花大綬章を授与される。
  • 5月31日 - 広島県出身でカリフォルニア州医師免許を持つ辰口ポール信夫帝国陸軍軍医曹長が、アッツ島の戦いで戦死。辰口による日記は、同島での戦闘が終結した後に発見され、MISの梅谷サム保夫3等軍曹が英訳。米軍内で大きな反響を呼び、終戦後にアメリカ国内でも出版される事となった。
  • 6月5日 - ハワイの日系人約1,700人が、連邦政府に「東京爆撃」を要請すべく、1万340ドルの小切手を、中部太平洋陸軍司令官のロバート・C・リチャードソン・ジュニア(英語版)中将へ贈呈[169]。
  • 6月21日 - 日系人への強制収容に抗議すべく、夜間外出禁止令に違反した平林ゴードン潔と安井稔が、連邦最高裁で有罪判決を受ける(ヒラバヤシ対アメリカ合衆国事件(英語版)、ヤスイ対アメリカ合衆国事件(英語版))。
  • 8月 - ハワイ準州出身の山田政雄が、米軍では初となる日系人の従軍牧師として、ミシシッピ州のキャンプ・シェルビーに駐屯する442連隊へ合流[170][注釈 77]。
  • 8月14日 - マンザナー強制収容所で、アメリカの日系人収容所におけるものとしては初となる、1世の石工である廉・F・L・良三[注釈 78]によって手掛けられた慰霊塔が除幕される[174]。塔には、同収容所内で亡くなった135名の氏名が刻まれた。
  • 9月2日 - 「忠誠登録」に“No-No”と回答した者の割合が、最も高かったトゥーリーレイク強制収容所[注釈 79]で、日本への帰国を希望した者達の第1陣が、第2次日米交換船[注釈 80]でアメリカを離れる。ただし、帰国希望者が当局側の予想を上回った事から、終戦まで同収容所に留め置かれた者も多かった。以降は、1946年2月23日に最後の送還船が出航するまで、4,724名の「No-No組」が、日本へ帰国する事となった[注釈 81][176]。
  • 9月13日 - トゥーリーレイク強制収容所で、「Yes-Yes組」と「No-No組」の隔離が始まる。これ以降「Yes-Yes組」は、他の収容所へ送られる。5日後には、他の収容所における「No-No組」が、同収容所に到着[注釈 82]。
  • 9月14日 - 日本側の第2次日米交換船・帝亜丸が、茶5万斤、味噌7,000貫、醤油8,600樽、計53トンに及ぶ日本語書籍 / 囲碁 / 将棋から成る「敵国在留同胞救恤品」を積載し、横浜から出航。アメリカ国内の日系人収容所へ届けられる。
  • 9月22日 - 100大隊がヨーロッパ西部戦線に参戦。イタリアやフランス(英語版)を転戦し、モンテ・カッシーノの戦いなど各地で、その激闘ぶりを賞賛される。
  • 9月29日 - イタリア戦線で、100大隊の高田ジョセフ繁雄3等軍曹が、日系人兵士として初めて戦死。死後、殊勲十字章を授与される。
  • 10月 - トゥーリーレイク強制収容所で、抑留者の男性が、トラック事故で死亡。その際、未亡人に対する補償が余りにも少なかった事に、他の抑留者達が反発し、大規模なストライキを起こす。
これに対してWRAは、「相場の10倍の賃金を与える」という触れ込みで、他の収容所から234名の日系人を集めて、スト破りを実行。それでも、抑留者達が屈服する様子を見せなかった事から、WRAは軍隊を投入し、収容所の管轄権も軍警察へ移行。11月14日には、軍警察が戒厳令を施行し、約350人が収容所内の営倉に監禁、約1,200人の1世が司法省が管轄する敵国人抑留所へ送致された。
その為、翌1944年の年明けに、「これ以上の抵抗は、収容所に対する食糧封鎖すら起こしかねない」と判断した抑留者達は、ストライキを撤回。1月15日に、収容所の管轄権はWRAに戻され、戒厳令も解除された[178]。
  • 10月 - 同年の晩春にコロラド州のアマチ強制収容所を出所した後、州内のタマネギ農園で働いていた、何れも既婚者であるカリフォルニア州出身の設楽3姉妹が、近隣のトリニダード捕虜収容所から、同農園へ労務作業に訪れていたドイツ人捕虜であるハインリッヒ・ヘルダー及びヘルマン・ローシャーの2名と、不倫関係となる。
それを機に、ヘルダーとローシャーは同月18日に同収容所を脱走し、民間人に成り済ます為の男性服を用意していた姉妹達と合流。南下を図るも、車がエンストを起こした事を機に、双方は別れる。2名は、ニューメキシコ州ワトラス(英語版)へ辿り着いたが、地元の女性達とバーで遊んでいる所を逮捕される。
その際、姉妹達が渡したと思われる現金や地図に加え、彼女達とキスや抱擁を交わす写真が、何枚も押収される。当局側は、同収容所からの更なる脱走が起きる事態を防ぐべく、逃走の経緯について詳しく証言すれば、刑を減刑するという司法取引を2名に持ち掛けたところ、姉妹達による脱走幇助を自供。マスメディアは、一連の出来事を“Japanazi Romance”と銘打ち、前代未聞の醜聞として大々的に報道した。
翌1944年5月2日に、コロラド州の連邦大陪審は、姉妹達を起訴し、8月11日に反逆陰謀罪で有罪が確定。長女・ウォレス鶴子が2年、次女・大谷フローレンス静江と三女・谷越ビリー操が、22ヶ月の実刑判決を受け、ウェストバージニア州の連邦女性刑務所に収監される。姉妹達は、何れも1946年に刑期満了で出所[179][180][181]。
  • 11月 - トゥーリーレイク強制収容所で、アメリカ生まれの2~3世が日本へ渡った後に、「日本人」として生活できる下地を整える事を目的とした、収容者達の出資・運営による8校の国民学校が設置される[175]。
  • 12月13日 - アイリス・ワタナベが、日系人として初めて、婦人陸軍部隊(WAC)に入隊[158]。
アマチ強制収容所出身の初戦死者6名を追悼する式典で、半旗を掲げるボーイスカウトのメンバー(1944年8月5日撮影)
  • 4月26日 - ハワイ準州で「第1399建設工兵大隊」が編成される。
  • 5月 - トゥーリーレイク強制収容所で、全ての集会が禁止となる。学校や職場、スポーツ、レクリエーションも閉鎖される[178]。
  • 5月10日 - 連邦最高裁が、江見フランク誠之(英語版)をはじめとする、ハートマウンテン収容所における徴兵忌避者63名に関する起訴を受理。6月24日に、有罪及び実刑判決が確定[6]。
  • 5月24日 - トゥーリーレイク強制収容所で、建設トラック運転の労務に従事していた岡本ジェームズ正一が、収容所のゲートで、歩哨のバーナード・ゴー2等兵から通行証を提示するよう要求された際に、それを拒否。2名は口論となり、ゴーは岡本に向け発砲し、岡本は翌日に死亡。軍法会議でゴーは、「軍の備品を無許可で使用した」という罪状で、罰金1ドルの刑が課されたのみで、殺人容疑では無罪となった[157]。
  • 6月 - 歯科医の落久保襄次が、1942年3月に陸軍を名誉除隊した馬場勝と、442連隊員の未亡人である白水ルース静子と共に、『大統領令9066号』に基づく、陸軍による西海岸からの日系人排除の軍事的必要性への異議を唱え、同措置を撤廃させる裁判所命令を請求すべく、WDC長官のチャールズ・H・ボーンスティール・ジュニア(英語版)陸軍少将を提訴。
戦争省は、原告側の主張に概ね賛成だったものの、ルーズベルト大統領は日系人排除の終了を、11月の大統領選以降にする事を望んだ。その事から司法省は、3名に帰還許可を与える事で、訴訟を終了させる事を意図した。ボーンスティール長官は、8月に馬場と白水には帰還許可を与えたものの、落久保に対しては「敵のスパイとみなすには、十分な資質と人脈を有している」として、許可を与えなかった。これには、司法省の一部からも「西海岸からの日系人排除は、最早必要は無いと認識している筈の連邦政府による、同措置の正当性を証明する回答を出す為の、時間の先延ばしを意図した、見苦しい戦略的遅延」として、批判の声が挙がった。
9月に原告側弁護士のA・L・ウィリンは、司法省に対し、日系人排除を継続させる根拠を明らかにするよう請求。連邦政府は、日系人そのものではなく、落久保個人を排除する命令を発令する事を決定。これに伴い、同訴訟は日系人排除の正当性から、落久保自身を西海岸から排除し続ける事の正当性を問うものへと変化した(オチクボ対ボーンスティール事件)[182]。
  • 6月11日 - 100大隊が442連隊に統合される。
  • 6月22日 - ルーズベルト大統領が、『1944年復員兵援護法』に署名。この法案を機に、2世の教育水準は一気に高まる事となった。
  • 6月23日 - ニューギニアの戦いで、MISの水足テリー行隆技術軍曹が、同部隊における初の戦死者となる。死後、銀星章と名誉戦傷章を授与される。
  • 7月1日 - ルーズベルト大統領が、『1944年市民権放棄法(英語版) (通称:帰化取り消し法)』に署名。アメリカ市民権の放棄を希望する収容者には、その権利が与えられる事となった。
  • 7月9日 - サイパンの戦いが、アメリカ側の勝利により終結。この結果、日本の絶対国防圏が、事実上破られる事となり、7月22日に東條内閣が総辞職。
  • 7月26日 - MISの久保ボブ保一4等技術兵が、サイパン島で8人の日本兵と、彼等により洞窟に監禁されていた122人の民間人を、1人の死者も出さず、投降させる事に成功。10月18日に、同部局の兵士としては初となる、殊勲十字章を授与される。
  • 8月8日 - 関門鉄道トンネルが、上下線ともに開通。
  • 10月26日 - ドイツ軍により包囲され、救出困難と判断された事から、「失われた大隊」と呼ばれ始めていた第36歩兵師団(英語版)第141歩兵連隊(英語版)第1大隊(通称:テキサス大隊)を救出する為の作戦が、ルーズベルト大統領から442連隊に対して命じられる。10月31日に作戦は成功するも、211名のテキサス大隊員を救出する為に、442連隊は56名の戦死者と約800人の負傷者を出す犠牲を払った。同戦闘は、後に「米陸軍における10大戦闘」の一つとして数えられる事なった。
  • 11月24日 - 戦争省が、アメリカ市民権を持たない1世でも、所定の条件を満たした者に限り、陸軍へ志願する資格を与える旨を発表[183]。結果として、終戦までに40名の1世[注釈 83]が、米陸軍兵として軍務に服した。
  • 11月29日 - オレゴン州フッドリバーで、郡庁舎にある「名誉の壁」から、16名の2世兵士の名前が削除される。しかし、翌1945年1月3日に、同市出身のMIS隊員である蜂谷フランク忠一3等軍曹が、フィリピンの戦いで、勇戦の末に戦死。技術軍曹へ2階級特進したうえで、銀星章を授与される。これを機にフットリバーには、全米中から抗議の声が寄せられる事となり、同年4月29日に、16名の名前は壁に復元された。
  • 12月18日 - 連邦最高裁が、日系アメリカ人抑留そのものの違憲性を訴えた是松フレッド豊三郎の主張を退ける(コレマツ対アメリカ合衆国事件)。同日、エンドウ事件では「忠誠な市民の身体を拘束しておく事は、憲法違反である」と判断する。これらの判決以降、WRAと戦争省は、日系人への強制収容と西海岸における立ち退き命令を継続させる事が困難となる。しかし一方で、この事は一部の収容者の間で、アメリカ市民権放棄の動きを加速させる事態を招き、終戦までに5,589名の日系人が、アメリカ市民権の放棄を申し出た。
イタリア戦線において、ドイツ軍による砲弾から退避する442連隊員達(1945年4月4日撮影)
  • 1月2日 - 西海岸における、日系人への立ち退き命令が解除される。
  • 1月15日 - 外務省が、在米抑留邦人1,653名の氏名を発表。
  • 2月 - フランスのコート・ダジュールに駐屯中だった、442連隊の樫野四郎(英語版)2等軍曹が、同僚隊員と同じ米軍の憲兵が喧嘩騒ぎを起こした際に、その仲裁に入った廉で、直属の大隊長であるアルフレッド・パーセル中佐の命令により逮捕。軍の留置所に収監される[注釈 84]。1ヶ月後に仮釈放となり、ゴシック・ライン(英語版)の戦いへ従事し、銀星章と3個の名誉戦傷章を授与される[注釈 85]。しかし、ドイツ降伏の直後に行われた軍法会議で、禁錮6ヶ月の実刑[注釈 86]と2等兵への降格という判決が下された[185]。
  • 2月17日 - シカゴ出身の日米混血である来栖良帝国陸軍大尉が、多摩飛行場で事故死。
  • 2月27日 - 「オチクボ対ボーンスティール事件」の審議が、南カリフォルニア地区連邦裁判所で、ピアソン・M・ホール(英語版)判事の下で開始される。裁判では、
  1. WDCが管轄する区域の軍事状況は、日系人排除を継続しなければならない程に、深刻なのか?
  2. WDCは、日系人を西海岸に帰還させるうえで、誰が不適格であるかを判断する為の、有効な基準を設けているか?
  3. 落久保を「危険人物」と認定した事は、許容されない程に、恣意的な判断ではないのか?
の3つが、主な争点となった。法廷でWDCの関係者達は、「軍は、民間人を無制限に統制出来る権限を有している」という、広範な宣言を裁判所から引き出すべく、上述したリングルやフーヴァーによる分析報告を含めた、あらゆる諜報データとは矛盾した証言を繰り返した。
これに対し原告側は、帰還許可の付与の可否は、「日本国籍の放棄を申請したか」をはじめとした、限定的に明記された属性を有するかを、画一的かつ単純に調査する、厳格で普遍的な基準に基づいたものである事を指摘。特に問題視したのは、落久保がWDCが定めた基準では、何一つ不適格属性を有していなかったにも関わらず、排除の対象となっていた点である。
6月に、ホール判事は「議会が大統領令9066号に基づく、軍による排除命令に従わない行為を、民間人による犯罪と定める刑法を制定したとしても、WDC司令官には、落久保のような者を排除する命令を執行する権限は無い。仮に該当者が、西海岸に帰還したとしても、出来る事は司法省に事件を報告し、刑事訴追する事程度」との判決を下した。よって、落久保がWDC司令官による措置を差し止めるよう請求したとしても、そもそも司令官には、そうした措置を取る権限が無い為、訴訟には根拠が無いという結論に至った。
同訴訟は、落久保個人に対する排除命令の有効性について、最終的に判断が下される事は無かった。しかし、戦時下における軍当局には、ほぼ審査の余地なく民間人を支配し得る権限が与えられる事を、裁判所に認定させるべく、軍の証人や司法省の弁護士達が、総力を結集させたという事実を、詳らかにしたという点では、注目に値すると言える[182]。

年表(朝鮮戦争期)[188]

[編集]
シアトルの二世戦没者記念碑
  • 1945年
    • 「在外同胞対策委員会」が、「敵国在留同胞対策委員会」から財産移譲を受ける形で発足[注釈 88]。
    • 8月27日 - 同盟通信社記者の中島レスリー覚が、広島市への原子爆弾投下を初めて世界に向けて報じる。
    • 9月2日 - 戦艦「ミズーリ」における日本の降伏文書調印に伴い、第二次世界大戦が正式に終結。調印式には、連合国軍側通訳としてMIS少尉の坂本トーマス時雄 / 幸村次郎 / 吉村登、日本側通訳としてハワイ出身の和田ジミー隆太郎の計4名の2世も同席[76]。
    • 9月27日 - 在日アメリカ大使館で、第1回昭和天皇・マッカーサー会見が行われる。以降、1951年4月15日まで、11回に亘って実施される。
    • 9月30日 - ESCが解散。
    • 10月2日 - 「連合国軍最高司令官総司令部 (GHQ)」が、第一生命館に設置される(~1952年4月28日)。
    • 10月24日 - ハワイ準州における全ての統治機能が、文民政府に戻される。
    • 11月15日 - 藤井僚一が、シカゴで『シカゴ新報』を創刊。
  • 1946年
    • 塚本ウォルター武雄が、日系人として初めて、連邦最高裁判所弁護士会に登録される[189]。
    • 元442連隊技術軍曹のゴロー・ツチダ・ジュニア[注釈 89]が、日系人として初めて、本土(シカゴ)で警察官となる[190]。
    • ルース・ベネディクトが、アメリカ史上初の日本人論を題材とした著作となる、『菊と刀』を発表。日本では、長谷川松治による邦訳版が、1948年12月28日に出版される。
    • 2月28日~3月4日 - コロラド州デンバーで、戦後初のJACL全国大会が、開催される。
    • 3月7日 - ヨーロッパ戦線で戦死した、元100大隊上等兵の旨森貞夫に、日系人として初めて、名誉勲章が授与される。
    • 3月20日 - トゥーリーレイク強制収容所の閉鎖を以て、全収容所の運営が終了。
    • 5月3日 - 極東国際軍事裁判(東京裁判)が開廷。同裁判には、G2翻訳通訳部軍属の言語裁定官である、MISの伊丹デイヴ明少尉の他、広田弘毅元首相や東郷茂徳元外務大臣の担当弁護人である山岡譲爾など、多くの2世が携わる事となった[191]。
    • 6月 - 米軍の日本語学校3校が閉校。
    • 6月20日 - 100大隊軍医の川崎アイザック愛作が、日系人として初めて、陸軍中佐に昇進[192]。
    • 6月26日 - WRAが解散。
    • 6月29日 - 進駐軍として日本に駐留した米兵と婚約した日本人女性に、アメリカへの渡航を許可する『G.I.婚約者法(英語版)』が成立。
    • 7月9日 - JACLが、1世の帰化権獲得及び日本への送還の停止、強制立ち退きへの補償などを、連邦議会で立法化させる事を目的とした「反差別委員会」を、ユタ州で法人組織として設立。翌年1月27日に岡田訂会長は、正岡マイク勝委員長をロビイストとして、ワシントンD.C.へ派遣。
    • 7月15日 - ホワイトハウス南側のザ・エリプス(英語版)で、トルーマン大統領の主催による、442連隊の歓迎式典が執り行われる。翌月の16日を以て解散。最終的に同連隊は、その活動期間と規模に比して、アメリカ合衆国軍事史上において、最も多くの勲章を受けた部隊となり、歴史にその名を残す事になった。
    • 11月 - 何れも1世の浅野七之助と安井關治がそれぞれ設立した、サンフランシスコの「日本難民救済会」とニューヨークの「日本救援紐育委員会」が中心となり、「ララ物資」の提供が開始される。多くの日系人達が、自身の窮状を顧みず、この活動に携わる(~1952年6月)。
    • 11月3日 - 日本国憲法が公布。翌1947年5月3日より施行。
    • 11月5日 - 戦後初めて行われたハワイ準州議会議員選挙で、上院では共和党の築山ウィルフレッド長松(英語版)[注釈 65]、下院では共和党の榊原トーマス為一(英語版)と板垣ジョセフ梁造、民主党の城戸光之 / 新城松喜 / 大上トーマス友一の計6名が、当選を果たす。郡参事選挙でも、ハワイ郡では共和党の吉田バド義雄と民主党の阿部一久(英語版)[注釈 65]、カウアイ郡では共和党の濱本豊が、それぞれ当選[193]。
  • 1947年
  • 1948年
  • 1949年
    • 1月 - 日米開戦に伴い解散した、CJAOAの実質的な後継団体である「南加州日本人商業会議所」[注釈 91]が設立される。
    • 5月 - 湯川秀樹が、日本人として初めて、米国科学アカデミーの外国人会員に選出される[200]。
    • 5月30日(戦没将兵追悼記念日)
      • エバーグリーン墓地で、「殉国碑 (442nd Infantry World War II Memorial)」が除幕される。素材には、1945年春に442連隊により解放された、イタリアのカッラーラで採掘された白大理石が使用された。高さ約10メートルの塔の天辺には、旨森元上等兵を象った像が聳えている[201][202]。
      • シアトルにあるレイクビュー墓地(英語版)で、「二世戦没者記念碑 (Nisei War Memorial)」が除幕される。素材には、ミネソタ州で採掘された虹色の花崗岩が使用された。碑には、ルーズベルト前大統領による「アメリカニズムとは、心と精神によるものであり、人種や祖先に基づくものではない。また、その理念は一貫して不変のものである」といった言葉が刻まれている[203][204]。
    • 7月5日 - 前年8月に、連邦政府が原告となり、国家反逆罪の容疑で逮捕されたアイバ・ダキノの裁判が、サンフランシスコの連邦地方裁判所で開始される。同年9月29日に、禁錮10年 / 罰金1万ドル / アメリカ市民権剥奪の判決が下された。
    • 8月 - リトル・トーキョーで、戦後初の「二世週日本祭」が開催される。
    • 11月2日 - 連邦政府が戦後初めて、日本の大学卒業(卒業見込みを含む)者約100人に、アメリカへ1年間留学させる機会を与える事を、GHQ民間情報教育局を通して発表。同年12月1日に、仙台 / 東京 / 名古屋 / 京都 / 広島 / 福岡で行われた選考試験は、約6,000人が受験し、142名が合格[205]。
  • 1950年
    • 『日本人帰化法案』が、連邦議会の上下両院で可決されるも、トルーマン大統領は署名を拒否[6]。
    • 5月16日~6月19日 - 第100歩兵大隊の退役軍人会である「第100大隊クラブ」が、会館建設の為の基金を募集すべく、美空ひばりと川田晴久による興行をハワイ各島で実施。興行を終えた後の2人は、同地で映画『東京キッド』の撮影を行った[206][注釈 92][注釈 93]。
    • 6月25日 - 朝鮮戦争が勃発[注釈 94]。
    • 7月16日 - ハワイ島ヒロにあるアラエ墓地で「布哇日本人先亡者慰霊塔」が除幕される[209]。
    • 8月6日 - 濱重タツ子と吉崎サディ恵美子が、日系人女性として初めて、陸軍少尉に任官[210]。
    • 8月10日 - GHQの指令により、日本で警察予備隊が設立される。
    • 12月 - JACDが解散。
  • 1951年
    • 日本郵船による定期航路が、再開される。
    • サクラメントで、国内では初となる、日系人を対象とした退役軍人クラブとなる「2世VFWポスト8985(英語版)」が設立される[注釈 95]。
    • 初の日米合作映画である『東京ファイル212』が、1月26日に日本、5月31日にアメリカで公開される。
    • 5月30日 - フレズノにあるローディング公園で、「二世忠魂碑 (Nisei War Memorial)」が除幕される[211]。
    • 6月 - ユタ州出身の柴田穣次(英語版)が、日系人として初めて、陸軍士官学校を卒業[212][注釈 96]。
    • 6月19日 - 与那嶺ウォーリー要が、戦後では初めての外国籍選手として、読売ジャイアンツに入団。
  • 1952年
  • 1953年

年表(ベトナム戦争期)[221]

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50年代

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アイゼンハワー大統領から名誉勲章を授与される宮村ハーシー浩

60年代

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ケネディ大統領が、井上ダン建とその家族をホワイトハウスに招待した際の一枚。(左3人目から井上の)父・兵太郎、妻・マギー志信、弟・ジョン俊夫とロバート和夫(1963年1月10日撮影)

70年代

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在アメリカ合衆国日本国大使館旧公邸

年表(戦後昭和期)[257]

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70年代

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(左から)平林ゴードン潔、安井稔、是松フレッド豊三郎

80年代

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日本村プラザの一角

年表(20世紀平成期)[270]

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勇敢同胞記念碑

年表(21世紀平成期)[279]

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2000年代

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ユージーン日系アメリカ人芸術記念碑の一展示

2010年代

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日系退役軍人達が見守る中、日系人部隊へ議会名誉黄金勲章を授与する法案に署名するオバマ大統領(2010年10月5日撮影)

年表(令和時代)

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2020年代

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リトル・トーキョーにある、ロサンゼルス都ホテルの外壁に描かれた大谷翔平の壁画

脚注

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注釈

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  1. ↑ 代表的な事例としては、『中国人排斥法』成立にも多大な影響を与えた、アイルランド出身の労働運動家であるデニス・カーニーが、1892年7月6日にサンフランシスコで、
    日本人の入国を制限しなければ、4,500万人の異教徒達が、我々の子供を誘惑し、堕落させ、彼等の故郷では習慣となっている悪徳を教え込むのを許す事になる。
    と演説した件が挙げられる[6]。
  2. ↑ 1921年には「北米日本人会」と改称。1931年には、シアトル日本人商工会議所と合併し「北米日本人会商工会議所」に再編された。
  3. ↑ ただ、これ以降も1世達は、進んで2世である子供達の日本国籍を届け出た為、2世の大半は日米二重国籍のままだった。2世による日本国籍の放棄が進むのは、日米関係の悪化に伴い、反日団体が2世による二重国籍問題を、攻撃の槍玉に挙げるようになった1939年以降である[12]。
  4. ↑ 永井荷風は、横浜正金銀行のニューヨーク駐在員だった頃、シアトルへ出張した際に目の当たりにした一帯の様子を、自著『あめりか物語』で「何から何まで、日本の町を見ると少しも変わった事のないありさま」だったと描写している[16]。
  5. ↑ 無論、異人種間の結婚が禁止されていないワシントン州やハワイ準州などでは、日系人が非日系人と結婚したようなケースもあった。そうした背景に基づくエピソードとして、ワシントン州の場合、特に友会徒やモルモン教徒である非日系人と、交際もしくは結婚している子供や孫を持つ人物が、収容所に抑留されている間に、財産管理をしてもらう事に成功した事例も、極少数ながら存在した[18]。
    また、映画『愛と哀しみの旅路』でも、異人種間の結婚が禁じられているロサンゼルスで、恋愛関係になった白人男性と日系人女性が、シアトルへ駆け落ちをする描写がある。
    ハワイ準州の場合、後述する酒巻和男帝国海軍少尉の第一発見者となった、ハワイ準州防衛隊第298歩兵連隊G中隊のデビッド・アクイ(英語版)伍長は、日系人とハワイ先住民の混血であった[19]。日系人を中心に編成された第100歩兵大隊にも、カホロクラやカレイアロハ、ケアロハの姓を持ったり、日本姓でもハワイ先住民との混血である隊員が、約20名在籍した他、華僑やフィリピン人、ポルトガル人との混血である隊員もいた[20]。
  6. ↑ 同地の元住民により構成された“ターミナルアイランダーズ”の元会長。2014年には、日本国政府から旭日双光章を授与されている。
  7. ↑ 1883年10月8日に、北海道函館市で生まれる。1903年に捕鯨船の乗組員として渡米し、その翌年にバージニア州ニューポートニューズで海軍に入隊。以降、退役までの20年に亘り、防護巡洋艦「コロンビア」をはじめとした計20隻で、コックとして務める。第一次世界大戦終戦の翌年に、アメリカ市民権を与えられる。
    太平洋戦争開戦の時点では、トーランスでコックとして働いていた。開戦後は、白人の妻と共にジェローム強制収容所へ収容される。後に、ヒラリバー強制収容所へ移送されるが、1944年夏に同収容所で、妻と死別する。
    終戦後は、1950年に日系人女性と再婚し、トーランスでイチゴの栽培を営むようになる。因みに同年には、ロサンゼルスで催された在郷軍人会(英語版)主催のパレードに参加している。1975年4月5日に、91歳で逝去[38]。
  8. ↑ 所属部隊も、大統領部隊感状を授与されている。
  9. ↑ ハワイ大学在学中に、ROTCを履修した事に伴い、当時のアメリカにおける2世としては、初めて予備役陸軍歩兵少尉に任命された1人となった。1931年の卒業と同時に、USARPACに入隊。ハワイ準州内における、日系コミュニティ及び日本総領事館の活動を監視すべく、総領事館で働く日系人から、情報提供者を確保するなどの、対諜報活動に従事した。1957年6月30日に、中佐の階級で退役[51]。
  10. ↑ インディアナ州エバンズビル出身のジェームズ・オグラ・ジュニアなる人物である事以外の詳細は不明。
  11. ↑ 朝鮮戦争にも従軍し、銀星章を授与されている。
  12. ↑ 陸軍軍人としての最終階級。1948年にアメリカ空軍特別捜査局(英語版)へ転属し、1975年に空軍中佐の階級で退役している。
  13. ↑ 因みに、彼が戦死した4月5日は、現在のアメリカでは「Go For Brokeの日」として、祝日の1つに制定されている[59]。
  14. ↑ もう一つは、フィリピン系のホセ・カルーガス(英語版)元大尉への、バターンの戦い(英語版)における戦功に対するもの。
  15. ↑ 1933年の調査によると、特に多かったのが、広島の4,655名、山口の2,636名、和歌山の2,365名だった。
  16. ↑ 例えば、零戦の開発に携わっていた三菱重工業には、マサチューセッツ工科大学の卒業生を含めた、6名の2世が在籍していた。
    また、ライシャワー駐日大使の個人通訳を務めた西山ウィリアム千は、ユタ大学で電気工学の修士号を取得していた為、1935年に日本に移住してから終戦までの10年に亘って、逓信省電気試験所(現:産業技術総合研究所)で研究業務に従事していた。
  17. ↑ そのうち、約1,700人は単身日本へ渡ったうえで独り暮らし、残りは家族や親族と暮らしていた。また、東京に居住していた学生は、約700人だった[62]。
  18. ↑ 当時、日本からの輸出は大恐慌の影響により急激に落ち込み、大量の金が流出するという事態が起きた。日本国政府は、1931年12月に金本位制から離脱し、金禁輸を再開したが、これにより円・ドル為替相場は暴落。翌1932年11月までに、100円の価値は38ドルから19ドルへ下落した。1933年を通じ為替水準は、24ドル未満に留まっていた。アメリカで大学へ通うには、月40~80ドル程かかったが、日本で学ぶ場合は、生活費も含めて月18~20ドル程で済んだ。
  19. ↑ こうした傾向は、アメリカの白人社会でも見受けられた。
  20. ↑ これは、アメリカ法制度の原則とは、真逆の考え方である。
  21. ↑ 3~5,000人程と推計されている[69]。
  22. ↑ オレゴン大学在学中に、ROTCを修了した後、予備役陸軍少尉としての任官を申請する。しかし、無下に却下され、この事を「アメリカが日系市民を完全には信頼していない旨の公式通告」と解釈。両親や日本国政府にコネクションを持つ家族の友人からの勧めもあり、2度に亘って日本を訪問した事を機に「太平洋岸で、自分の行く手に置かれた人種的障害に妨げられずに、自らの地位を十分に享受する」べく、1933年に日本へ移住。2世として初めて東京帝国大学に入学し、大学教授やNHKの英語アナウンサーとして働いた[70]。
  23. ↑ かまやつひろしの父にあたる。
  24. ↑ 森山良子の父にあたる。
  25. ↑ 広島県は、全国1位の移民送出県である。
  26. ↑ 建設に際しては、竹宮が民事部長として、地元住民や自治体との交渉にあたった、という背景がある[75]。
  27. ↑ 文化学院の校舎を接収して、設置された施設だった。
  28. ↑ 因みに、和田の姿を収めた写真としては、 / / / の4枚が確認されている。
  29. ↑ この中には、前述した在日2世も、多く含まれていた。しかし、日本人待遇だった事から、給料は一般的な2世の1/7程度で、GHQ専用の車両や宿舎、食堂などの利用も禁じられるなど、職員のヒエラルキーでは、最下層の扱いだった[79]。
  30. ↑ 余談ではあるが、南カリフォルニア大学出身の二階堂は、ハーバード・ビジネス・スクール出身の松本フランク瀧藏やアメリカン大学出身の三木武夫共々、アメリカ留学時代に現地の日系コミュニティと結び付きを持つようになった事から、戦後は公職追放を免れ、日米関係修復への尽力を含めて、占領下の日本政界では多大な影響を及ぼす事となった。こうした事から、羅府新報では彼等を「在米関係者」と呼称した。また、カリフォルニア州の日系コミュニティでは、解散総選挙が行われる度に、彼等の地盤である選挙区内に住む親類や知人へ投票を呼び掛けたり、支援金の収集及び送付が行われた[84]。
  31. ↑ 川崎農園で働いていた鹿児島出身の1人は、逃走した20名を「被害者意識が強いとしか思えない」と評したうえで、永住権取得を支援した川崎への感謝の言葉を、繰り返し語っていた[85]。因みに川崎は、1969年4月に日本国政府より、勲五等瑞宝章を授与されている[86]。
  32. ↑ 特に、大都市へ移った者は、庭師へ転職する事例が多かった。また、農場に留まった者達にも、雇用先での仕事が無い時には、一時的にロサンゼルスで庭師として働く事も認められていたという[88]。
  33. ↑ 1982年に、現在の連邦請求裁判所(英語版)に改編される。
  34. ↑ ケンドリック達一行の中に、日本語を解する者はいなかったものの、中国人船員による筆談で、地元民との意思の疎通が行われていた。
  35. ↑ 2名とも、日本名は不明。
  36. ↑ 外務省の資料では、153人とされている。
  37. ↑ その後もヴァン・リードは、奴隷解放宣言後のルイジアナ州におけるサトウキビ畑の労働者として、1870年に日本人250名の雇用申請を行うも、日本国政府が許可せず、実現には至らなかった。
  38. ↑ 詳細な記録がない為、正確な人数は不明。
  39. ↑ 発表は1872年。多少の誤差を含む。
  40. ↑ 実際は、母・なみが米を身籠っている最中に、日本へ一時帰国し、東京で彼女を出産。よって、本来なら米は、アメリカ市民権を与えられる対象ではなかったものの、父がサンフランシスコで出生届を出した為、戸籍上はアメリカ人となった[111]。
  41. ↑ 最後の上田藩藩主である松平忠礼の弟にあたる
  42. ↑ 内訳は、成人男子676名 / 成人女子159名 / 未成年108名。
  43. ↑ 重田は、レストランの経営権を、開店から2年で他者へ売却。1890年頃に、ロサンゼルスからコロラド州キャニオンシティ(英語版)へ移住し、同地でも飲食店を営んだ[113][114]。
  44. ↑ 明確な記録は残されていないが、創刊号が発行されたのは、同年2月だったという説が、現在では有力視されている。
  45. ↑ しらやまだに きたろう。英語では“Kataro”と誤表記されたまま後年に伝わる。
  46. ↑ 石坂昌孝の長男にあたる。
  47. ↑ それまでは、同じアジアからの移民である「中国系」の項目へ、一括りに分類されていた。
  48. ↑ 官約移民の出身県の割合としては、38.1%が広島、35.9%が山口、14.6%が熊本、7.5%が福岡といった具合に、全体の96.1%が4県で占められていた。正確な統計は無いものの、官約移民の6割以上が、出稼ぎ目標を達成し、ハワイでの蓄えを携えて帰国したと推測されている[118]。
  49. ↑ 1895年8月8日には、大和民族として初めてモルモン教に入信している[121]。
  50. ↑ 同年のハワイでは、3月に佐倉丸で入港した316名中163名、4月に畿内丸で入港した670名中560名の日本人が、同様の理由で上陸を認められず、日本へ送還されている。
  51. ↑ 1903年に、資本金2万ドルの「日米銀行」へ改組され、1906年に法人組織化される。これ以降も、カリフォルニア州では1908年までに、サンフランシスコで3行、サクラメント / オークランド / フレズノでそれぞれ2行、バカビルで1行の日系銀行が設立された。
    しかし、1907年に全米で132行の銀行が倒産する不況が発生。これに伴い、1909年にはサクラメントの桜府貯蓄銀行、フレズノの神川兄弟銀行とフレズノ勧業銀行の3行を残して、日系銀行は殆どが倒産する事となった。
    同不況を乗り切った3行も、神川兄弟銀行は1911年に倒産。フレズノ勧業銀行は、1922年にバレー・バンク・オブ・フレズノへ売却されたのを経て、バンク・オブ・イタリー(現:バンク・オブ・アメリカ)フレズノ支店の一部となった。桜府貯蓄銀行は、経営危機に陥った1920年に、大阪の平林組に買収され、一旦は営業の継続が叶った。しかし、1924年にカリフォルニア州銀行監督官から、営業停止処分を受けた事で、翌1925年3月からの同市での営業開始を目指していた、後述する「加州住友銀行」へ資産を売却する事となった[122]。
  52. ↑ ハワイでは、住田多次郎により1908年9月3日にホノルルで、「ホノルル日本酒醸造会社」が設立されたのが初めて。
  53. ↑ 当時としては、国家予算の1/1,000に相当する額で、世界中から寄せられた支援全体の50%を超えるものだった。
  54. ↑ 当時、日本の保護国だった大韓帝国出身者の子弟も含める。
  55. ↑ 1966年に総領事館へ格上げされたものの、2013年に領事事務所へ格下げされている。
  56. ↑ 設立にあたっての趣意書には、
    同会は、1911年度から在米日本人会代表者会へ代表者を送り、羅府日本人会を中心に、漸く激化してきた加州排日土地法対策、その他諸般の問題処理に当たった。1914年4月9日、南加各地の日本人会代表者が集まり、排日土地法など時局多端に鑑み、従来の単なる連絡団体にすぎなかった『南加連合日本人会』を、独立団体に改組を決定…
    と記されている。
  57. ↑ 2008年1月に、ナッシュビルへ移転(英語版)。
  58. ↑ 最終的に、日本からハワイへの移住者数は、先に渡った家族に呼び寄せられた62,277人を含めて、199,933人にまで及んだ。その内、約3割は本土へ渡り、2割弱は帰国を選択した。
  59. ↑ 因みに豊田は、後述する1935年の『ナイ・リー法』成立に際しては、再帰化の申請は行わなかった。
  60. ↑ 大和民族全体としては、大阪高等商業学校卒業後に同ビジネススクールへ留学した村本福松が、1919年に取得したものが最初となる。
  61. ↑ 松平忠厚の次男、徳川家康及び伊達政宗の9世孫にあたる。
  62. ↑ 1997年9月30日に、バンク・オブ・ハワイにより吸収合併される[139]。
  63. ↑ 上院では、1940年11月5日に、共和党の阿部三次(英語版)が当選したのが初めて[144]。
  64. ↑ 住田多次郎の弟にあたる。
  65. 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 日本国政府より、重光章もしくは旧勲二等を授与されている。
  66. ↑ うち58名は日系人、2名は滞日経験のある白人。
  67. ↑ 他にも、ドイツ国籍者74名、ドイツ系市民19名、イタリア国籍者11名、イタリア系市民2名が身柄を拘束された。
  68. ↑ 当時の在ホノルル日本国総領事館は、オアフ島以外の島々に常駐職員を置く余裕が無かった。その為、多くのハワイ準州各島在住の1世達が、出生や死亡、婚姻などの各種手続の代行を、無償で行っていた。因みに、開戦後のアメリカ国内で、大島と同様の理由で逮捕された1世は、ハワイと本土を合わせて、212名に及んだ。
  69. ↑ 1905年に、当時の『やまと新聞』を相賀安太郎(英語版)が買い取る形で創刊。1942年11月2日に『布哇タイムス』へ改題。1985年3月25日を以て終刊。
  70. ↑ 1928年から3年間に亘って、東京の在日アメリカ大使館付海軍武官として駐在し、日本語と日本文化を学ぶ。1936年7月からは、第14管区の情報将校補佐として、1年間ホノルルに駐在した経験などから、海軍きっての日本及び日系コミュニティ通として知られるようになる。
    1940年7月に、第11管区の情報将校補佐としてロサンゼルスに赴任すると、西海岸の日系人によるアメリカへの忠誠心の度合いを調査する任務を受命。JACLメンバーの間に、情報提供者のネットワークを構築し、スパイの疑いがある者の情報収集に努めた。
    そのうえで、ロス市警やFBIとも連携し、1941年6月に在ロサンゼルス日本国総領事館へ深夜の抜き打ち捜査を実施。結果として、日本国政府によるスパイの名簿を入手する事に成功し、立花止の逮捕に至る事となった[159][160]。
  71. ↑ 因みに、大戦中には日本の外務省がスペインで立ち上げた『東機関』の工作員20名が、スパイ容疑で連邦政府に逮捕されたものの、その全員が白人だった。また、戦前から戦後にかけて、スパイ行為や妨害行為で、日本人移民や日系人が有罪判決を受けた事例は、一件も無かった[161]。
  72. ↑ 田山以外のJACL幹部も、当時の会長だった城戸三郎が、ポストン強制収容所で1942年9月と1943年1月28日の2度に亘って、第4代会長を務めた谷田部トーマス保と1世の牧師である山崎ジョン節が、ジェローム強制収容所で1943年3月6日に、1世の画家である小圃千浦が、トパーズ強制収容所で1943年4月4日に、各々暴行を受ける事態に見舞われている。
  73. ↑ 一連の騒擾で、同隔離センターに移送されたのは、栗原と帰米2世全員の計16名だった。
  74. ↑ 第一次世界大戦の退役軍人である、1世のスローカム=西村徳太郎元上級曹長。
  75. ↑ その後のアーネストは、1945年12月に、妻の祖先の故郷である熊本県に移住したが、1948年に福岡市へ移り、アメリカ映画の配給会社の九州支社長となった。その後は、62歳で定年退職するまで、福岡学芸大学(現:福岡教育大学)で教鞭を執った。リタイア後は、3人の息子達をアメリカへ送った。91歳の誕生日には、峯田ノーマン良雄連邦下院議員から、1988年6月17日に合衆国議会議事堂で掲げられた星条旗を送られた。1993年12月21日には、退役軍人省より第一次世界大戦75周年記念メダルを授与されている。
  76. ↑ 因みに同年の6月には、収容所内の造園作業員によって、高さ約1.5メートル・重さ約450キロに及ぶ若狭の慰霊碑が建立されたが、ジョン・J・マクロイ陸軍次官補からの指令で、すぐに撤去された。しかし、2020年9月に考古学者のジェフ・バートンとメアリー・ファレルが、当時の抑留者が描いた地図をもとに、慰霊碑が埋められた位置を特定。2021年7月27日に、ユタ州デルタ(英語版)のトパーズ博物館により発掘され、破壊される事を危惧したジェーン・ベックウィズ館長により、同博物館の中庭へ移された。2022年には、国立公園局からの勧告により、慰霊碑の修復と保護が行われる事が、博物館側から発表された[167][168]。
  77. ↑ その後も日系人では、同年11月にはハワイ準州出身の樋口広夫、翌1944年3月にはカリフォルニア州出身の安藝譲次が、それぞれ442連隊の従軍牧師に着任している[171][172]。
  78. ↑ 1890年2月20日に、静岡県豊田郡光明村(現:浜松市天竜区)に生まれる。
    幼い頃から、アメリカへの移住を志し、その為の基礎を築くべく、12歳で父に上京を懇願し、東京の姉夫婦の下に身を寄せ、慶應義塾商工学校予科を卒業。
    同時に、中央茶業組合本部へ入会し、茶商として渡米。デトロイトで訪問販売員として半年間働いた後、1910年に友人らとRikko Tea Companyを創業する。
    しかし、会社の業績が芳しくなかった事から、1912年頃からクリーブランドで、ロックガーデン造園のアルバイトに携わる。これを機に、石工を目指すようになり、自ら立ち上げた会社を退職。1915年にロサンゼルスへ渡り、皇居の造園を担当した経験もある西村長太郎に弟子入りする。
    1919年にハリウッドで独立開業し、1922年には師の娘・はまと結婚。
    1929年に、カトリック信徒からの依頼で、教会の庭園に置く聖像台を誂えた事を機に、カトリックに帰依するようになり、ロサンゼルスのメリノール宣教会で受洗。以降は、ルルドの洞窟(英語版)を含めたカトリック関連の石造モニュメントを、生涯にわたって80近く手掛ける事となる。
    日米開戦後に抑留されたマンザナー強制収容所では、砂漠緑化と庭園管理の責任者となった。
    収容所内に建立した慰霊塔の除幕を見届けた後は、宣教会の手引きにより、ニューヨーク州オシニングにあるマザーハウス(英語版)へ身を寄せ、同地でも造園に携わる。
    1946年にロサンゼルスへ戻った後は、ロサンゼルス大司教区の造園建築監督に就任。1977年8月に引退するまで、その任にあった。
    1954年に、妻と共にアメリカ市民権を取得。
    1982年3月8日に、92歳で逝去[173]。
  79. ↑ トゥーリーレイクに「No-No組」が多かった理由として、WRAは「同収容所は、他所と比較して、独身の農業労働者が多かった。彼等は概して貧しく、成功の経験が無い事から、アメリカへの反感と日本への帰属意識を持つようになった」と分析している[175]。
  80. ↑ 使用されたのは、第1次と同じグリップスホルム号。
  81. ↑ 終戦後に日本へ帰国した「No-No組」は、総じて荒廃した祖国を目の当たりにして、愕然とする事となった。1946年2月4日付の『羅府新報』には、「鶴湖帰国者の叫び」と題して、帰国者がトゥーリーレイク強制収容所に残る兄夫婦に送った、
    鶴嶺湖で強硬派として鼻息の荒かった連中も、日本の現状を見て、ガッカリしております。帰国請願により、祖国日本の土を踏んだ帰国者は、異口同音に「アメリカに居住していれば良かった」と本音を吐いております。何卒、当地の皆様に呉々もお伝え下さって、再考を促すように、お計らい下さい。
    と綴られた手紙が掲載された。
  82. ↑ トゥーリーレイク強制収容所に送られてきた「No-No組」は、筋金入りの親日派や、アメリカに不忠誠なトラブルメーカーばかりだった訳ではなかった。自らの祖国ないし長年暮らした第2の祖国から、財産の没収や収容所への抑留といった、理不尽な仕打ちを受けた事への怒りや絶望から、日本寄りになった、ただ「忠誠登録」に“No-No”と回答した親に付き従っただけだった、など様々な背景があった[177]。
  83. ↑ ここで言う1世とは、 といった背景を持ちながら、同国で教育を受けた事で、帰米2世とは正反対に、日本国籍を持ちながら英語が第一言語となった、現在では「1.5世」と呼称される者達が該当する。
  84. ↑ 「失われた大隊」救出作戦の際、パーセルは日系人隊員達に、ドイツ軍のトラック輸送部隊への夜襲を命じた。樫野は、翌朝まで待つように進言するも、パーセルはそれを聞き入れなかった。結局、樫野は11名の部下を率いて、攻撃を試みるも、ドイツ軍の返り討ちに遭い、樫野以外の8名が死亡、3名が負傷する失敗に終わった。パーセルが、事件の内容を精査しないまま、樫野の逮捕を命じたのは、自身の命じた先の作戦が、樫野の予言が的中する形で、失敗した事への逆恨みに起因したものだった[184]。
  85. ↑ 同戦闘の以前にも、1つの樫葉章付き青銅星章と3個の名誉戦傷章を授与されている。トータルでは、5つの樫葉章付きとなる名誉戦傷章は、442連隊内では、最多のものとなる。
  86. ↑ 実際には、ゴシック・ラインでの活躍が認められ、2ヶ月で釈放となった。
  87. ↑ 福岡県糸島中学校を経て東京商科大学(現:一橋大学)卒業。海軍飛行科予備学生第14期。元山海軍航空隊所属。
  88. ↑ 何度かの改称を経て、1964年に現在の名称である「海外日系人協会」となる。1967年には、財団法人として認可される。
  89. ↑ マックス・ツチダの弟にあたる。
  90. ↑ 内訳は、28名がアメリカ国籍、1名がカナダ国籍。
  91. ↑ 何度かの改称を経て、1980年に現在の名称である「南加日系商工会議所」となる。
  92. ↑ その後も、第100大隊クラブは、基金募集の為に、同年9月28日~10月7日にかけて、木下大サーカスによるホノルルでの興行を、第442除隊兵クラブと共催する形で実施している[207]。
  93. ↑ 余談ではあるが、ハワイでの興行と撮影を終えた後の二人は、20日に本土へ発ち、翌月20日までサクラメント / ポートランド / スポケーン / シアトル / サンノゼ / ロサンゼルス / モントレー / サンフランシスコなど、西海岸の都市で巡業公演を行った。
  94. ↑ 同戦闘に従事した日系人は、兵士として最前線に赴いた者と、GHQにおける後方支援に携わった者を合わせて、約5,000人にも及んだ。休戦までに256名が戦死し、その内の17名は、第二次世界大戦にも従軍した者だった[208]。
  95. ↑ 現在、カリフォルニア州における日系退役軍人クラブは、サクラメントを含めて14ヶ所存在している。
  96. ↑ ハワイ出身者としては、1955年の池田ケネス清が初めて[213]。
  97. ↑ 1956年メルボルンオリンピックでも再度金メダル、1960年ローマオリンピックでは銀メダルを、同競技で獲得している。
  98. ↑ 同種目では、銀メダルを日本代表の橋爪四郎、銅メダルをブラジル代表の岡本哲夫が獲得し、大和民族が表彰台を独占する形となった。
  99. ↑ 1956年メルボルンオリンピックの800m自由形リレーでは、銀メダルを獲得している。
  100. ↑ 本土においては、1954年11月11日(復員軍人の日)に、全米各地で執り行われた同式に参加したのが初めて[218]。
  101. ↑ ハワイ出身者としては、1958年の後藤アーヴィング健と長谷川・F・K・久一の2名が初めて[220]。
  102. ↑ 他にも、同戦闘における日系兵としては、大友ビル正幸中尉、青柳利雄と犬塚峰雄の少尉2名、エドワード・イシバシと依田ヘンリー秀雄の1等軍曹2名、小橋川ロバート栄信3等軍曹、三浦篤雄 / 森重栄治 / 中田明 / 仲田ハロルド岩十郎の伍長4名、河村ジェームズ順一 / 森山文雄 / 岡村アーサー一郎の上等兵3名、宮崎ロイ一郎2等兵の計14名が、殊勲十字章を授与されている[223]。
  103. ↑ 他にも、同選挙に出馬した日系人候補としては、民主党前職から上院で阿部一久、下院で小林レイモンド政市 / 野田スティア儀角(英語版) / 芹澤俊男 / 山壽春の5名、共和党前職から上院で安齊敏雄 / 板垣ジョセフ梁造 / 三宅昇 / 築山ウィルフレッド長松、下院で福島保孝の5名が、当選を果たしている。
  104. ↑ 同大会には、住友銀行も多額の寄付を行っている。
  105. ↑ その後も日系人では、 をそれぞれ受賞している。
  106. ↑ 戦前の日本における兵役法では、「正当な事由がなく、兵役を免れる為に逃亡し、または身体を毀傷し、詐病、その他詐りの行為をなした者には、3年以下の懲役が課される」と明記されていた。
  107. ↑ 余談ではあるが、ハワイ州では州昇格から60周年、令和への改元を迎えた2019年までの間に、柏以降も小林バート孝明(英語版)、神原バートラム輝雄、雨宮ロナルド義彦、南ウェイン潔、渡辺コリーン薫(英語版)、安斎アール一郎(英語版)、ラッセル・スズキ(英語版)の日系人計7名が、州司法長官を務めた。
  108. ↑ 日本本土へ降り立つ事は叶わなかったものの、同年6月19日に当時アメリカの施政下にあった沖縄へ訪問している。
  109. ↑ その後も大和民族では、1986年に武井ジョージ穂郷、1994年にマコ岩松、2016年に三船敏郎が、それぞれ同殿堂入りを果たしている。
  110. ↑ 池田ケネス清の兄にあたる。
  111. ↑ その後も大和民族では、 を、それぞれ受賞している。
  112. ↑ 同章に加え、銀星章 / 青銅星章 / 3つの樫葉章付きの名誉戦傷章の他、南ベトナム政府からも戦功十字章(英語版)を授与されており、ベトナムから帰還した日系兵の中では、最も多くの勲章を獲得している[248]。
  113. ↑ 他にも、同戦闘における日系兵としては、1970年7月14日にドナルド・キムラ5等特技兵が、同章を授与されている[249]。
  114. ↑ 宇野バディ一麿の妹にあたる。
  115. ↑ ハワイでは、1974年7月14日に松田富士夫(英語版)[注釈 65]が、ハワイ大学で就任したのが初めて。
  116. ↑ 因みに、アメリカ統治下の沖縄では、1963年11月1日にA&Wレストランが、北中城村屋宜原に1号店を開店させ、同年12月25日に現地法人を設立したのが初めて[253]。
  117. ↑ 北米で、人口における日系人の割合が、最も高い都市である。
  118. ↑ 通常の志願兵に対する人件費と、徴兵制が国家にもたらす隠れた経済的コストを区別して、それぞれのコストの大きさを推計する計算方法を概説したものだった。内容の大意としては、人員の数が同じなら、金銭的なコストを低く抑えられるのは、それなりに高い給与を払わないと、必要な人員が集まらない可能性がある志願制より、強制的に召集出来る為、給与を低く抑えられる徴兵制の方である。一方で、法的義務によって仕方無く兵役に服している兵士達が抱く不満、あるいは経済厚生の損失という隠れたコストは、どの程度の大きさに及ぶのかも推計するべきとした。その経済的損失の推計は、1967年当時の額で8億2,600万~11億3,400万ドルにも及ぶと結論付けた[255]。
  119. ↑ 2007年3月29日には、NHLにも指定される。
  120. ↑ 1991年には、同じ編纂者による続編『ビッグ・アイイー! ― 中国系・日系アメリカ文学アンソロジー』が刊行されている。
  121. ↑ 副知事時代に、州知事代理を務めた期間を含めると、13年2ヶ月となる。
  122. ↑ 上院では、1977年1月2日に、共和党の早川サミュエル一衛が就任したのが初めて。
  123. ↑ 1983年に、中学校へ移行。
  124. ↑ 1985年2月4日にはNHL、1992年3月3日にはNHSにも指定されている。
  125. ↑ その後は、1998年に谷ダニエル通男が、日系人としては2人目の宇宙飛行士に選出されている。
  126. ↑ 初めて「追憶の日」の行事が催されたのは、1978年11月25日にワシントン州のキャンプ・ハーモニー(英語版)跡地で、JACLシアトル支部の幹部だった、1世の佐々木正介や2世の木下チェリー千枝子(英語版)らによって設立された「シアトル強制収容リドレス委員会」が主催し、約2,000人が集まったものによるものだった。同跡地では、1983年8月21日にはジョン・スペルマン(英語版)州知事とリドレス運動を支援してきた州議会議員らが立ち会いの下、蔦川譲二により手掛けられた彫刻の除幕式が執り行われた[262]。
  127. ↑ 以降も、強制収容経験者への補償の実現を目的とした日系人団体としては、1980年7月12日に西尾アラン武(英語版)カリフォルニア州立大学ロングビーチ校教授や松岡ジム晴之らにより、「全米補償・賠償連合 (現:日系公民権・補償協会; NCRR)」が立ち上げられている[263]。
  128. 1 2 3 3ヶ国とも、大日本帝国の委任統治地域としての南洋諸島から、アメリカ合衆国大統領を施政権者とする太平洋諸島信託統治領に移行した歴史を持つ地域であり、初代大統領は日系人である。
  129. ↑ 主人公・天羽賢治のモデルは、前述した伊丹デイヴィッド明と福原ハリー克治であるとされている。
  130. ↑ 他にも、同校におけるMISLSの関係者に纏わる建物としては、校長だった相磯ジョン藤雄の名を冠した図書館、教官だった宗方豊の名を冠したホールが、それぞれ存在している。
  131. ↑ ソロアーティストとしては、2004年11月に久保田利伸が出演したのが初めて。
  132. ↑ 2006年9月20日には、NHLに指定される。
  133. ↑ 1995年6月12日には、NHLにも指定される。
  134. ↑ 野口米次郎の長男にあたる。
  135. ↑ その後も日系人では、2021年に映画監督の茂川ジョーン愛子(英語版)、2022年には彫刻家の浅和ルース愛子とウクレレ奏者の太田ハーブ一郎が、それぞれ同勲章を授与されている。
  136. ↑ その後も日系人では、1992年に盆栽家の仲ジョン義雄(英語版)、2001年に太鼓奏者の田中誠一、2011年に太鼓奏者の平林ロイ満(英語版)/パティ嬢(英語版)夫妻、2012年に琉球舞踊師範の仲宗根リン芳子、2015年に日本舞踊師範の尾上菊延(堤ガートルード幸江)、2024年にフュージョンバンド「ヒロシマ」の箏奏者である倉本淳、2025年に盆踊り師範の花柳麗道(岩永エイドリアン麗子)が、それぞれ同賞を受賞している。
  137. ↑ その後も日系人では、2008年に南部陽一郎、2014年に中村修二、2021年に眞鍋淑郎が、何れも物理学賞を受賞している。
  138. ↑ その後も日系退役軍人からは、1991年に相磯ジョン藤雄元中佐、1995年に岩井次郎元中佐、1996年に田上寛元少佐と阿久根ハリー正実元特技兵、1997年に松本ロイ博元曹長、2015年に濱田ディック茂美元2等軍曹が、それぞれ同殿堂入りを果たしている。
  139. ↑ 1992年バルセロナオリンピックの同競技では、銅メダルを獲得している
  140. ↑ 対象には含まれているものの、所在が確認できなかった為、支払いの叶わなかった者が、4,000人以上いた。
  141. ↑ 棚町三郎の姪にあたる。
  142. ↑ その後も元MIS隊員からは、1997年に御所ヘンリー広治元2等軍曹、2004年に平林グラント次郎元技術軍曹が、ベトナム戦争従軍者からは、2007年に岡本ヴィンセント七郎元大尉が、それぞれ同殿堂入りを果たしている。
  143. ↑ それ以前の運営期間は、1期は1920年7月3日~1940年12月31日、2期は1952年4月29日~1970年9月15日。
  144. ↑ 2006年2月10日にはNHL、2022年3月18日にはNHSに指定される。
  145. ↑ 2007年を最後に、実施されていない。
  146. ↑ 1985年と1994年の2度に亘って、軍法会議での判決を不服として、再審を請求したものの、何れも軍法会議の記録が無い事を理由に、棄却されている。
  147. ↑ 樫野は、同年6月11日に逝去しており、生前の名誉回復は叶わなかった。
  148. ↑ 同地は、1975年4月8日にボエジャーズ国立公園の一部となった。
  149. ↑ 除幕の4ヶ月前となる、1998年3月4日に逝去している。
  150. ↑ 福岡市とオークランド市は、1962年10月13日に姉妹都市提携を結んでいる。
  151. ↑ 2001年1月20日に共和党のジョージ・W・ブッシュ政権へ交代した際も、運輸長官へ横滑りしている。峯田以降の日系人閣僚としては、2009年1月20日に新関エリック健が、民主党のオバマ政権で退役軍人長官に就任している。
  152. ↑ 余談ではあるが、この裁判所は、ヒラバヤシ対アメリカ合衆国事件に際して、1942年10月20日に平林ゴードン潔へ有罪判決を下している。
  153. ↑ その後も山本は、2006年11月9日にエチオピア、2018年11月17日にソマリアへの特命全権大使に就任している。山本以外の日系人としては、2010年11月10日にアレクサンダー・アーヴィズがアルバニア、2014年12月19日に山手ロバート徹がマダガスカル兼コモロ、2018年7月25日にハリー・B・ハリス・ジュニアが大韓民国への同職に、それぞれ就任している。
  154. ↑ 2006年トリノオリンピックの同500mでも、再度金メダルを獲得している。
  155. ↑ 2008年北京オリンピックの同競技では、金メダルを獲得している。
  156. ↑ 夫・ボブ武男の急逝に伴い、その地盤を引き継いだ事によるもの。
  157. ↑ 第11代琉球大学学長や初代名桜大学学長を歴任した、東江康治の兄にあたる。
  158. ↑ 余談ではあるが、彼の後任には、同じ日系人であるサチ・ハマイが就任している。
  159. ↑ 2015年2月19日には、NHSにも指定される。
  160. ↑ その後も大和民族では、2015年に中村修二、2018年に寺崎ポール一郎(英語版)、2019年に浅川智恵子、2024年に高峰譲吉、2025年にジェームズ・フジモトが、それぞれ同殿堂入りを果たしている。
  161. ↑ アメリカで文民に授与される勲章としては、2番目に高位のものとなる。
  162. ↑ その後も日系人では、2025年1月2日に遠藤美津江が、同章を死後の叙勲として授与されている[291]。
  163. ↑ アメリカ製作のアニメ作品における同様の事例としては、お笑い芸人の渡辺直美が、2025年夏公開の映画『星つなぎのエリオ』で担当したものとなる[312]。

出典

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参考文献

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関連項目

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